薬袋 (2020) における “whatever precautions might be taken” の de dicto 読み

問題

次のテクストは『自由論』として知られる Mill (1859) の一節です。

The struggle between Liberty and Authority is the most conspicuous feature in the portions of history with which we are earliest familiar, particularly in that of Greece, Rome, and England. But in old times this contest was between subjects, or some classes of subjects, and the Government. By liberty, was meant protection against the tyranny of the political rulers. The rulers were conceived (except in some of the popular governments of Greece) as in a necessarily antagonistic position to the people whom they ruled. They consisted of a governing One, or a governing tribe or caste, who derived their authority from inheritance or conquest, who, at all events, did not hold it at the pleasure of the governed, and whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest, whatever precautions might be taken against its oppressive exercise.

この下線部がなぜ議論になっているかについては id:tmneverdies 氏の記事をご覧ください。

tmneverdies.hatenablog.com

この箇所を薬袋 (2020) は次のように解説していますが、上の記事では部分的にしか引用されていないのでこの記事では全文を引用しておきます。

whatever precautions might be taken against its oppressive exercise は譲歩の意味を表す副詞節です。whatever は precautions を修飾しています。この副詞節は「最高権力の圧制的な行使に対してどんな予防措置が(そのとき)取られたとしても」という「過去の状況」を表しているのではありません。この意味であれば might have been taken でなければなりません(1-04-02 で「might +動詞の原形」が過去に対する推量を表す場合があることを解説しています。1-02-05 の might be taken の might は「推量の might」ではなく「譲歩の might」ですから 1-04-02 の解説は当てはまりません)。might be taken は「最高権力の圧制的な行使に対してどんな予防措置が取られるとしても」という意味です。ところで「主節は過去の状況を表しているのだから、whatever 節が might have been taken なら理解できるが might be taken では理解できない」と感じる人がいます。すべての先行訳がここを「過去の意味」で訳している(=might have been taken で訳している)のは、おそらくこれが理由でしょう。しかしミルは whatever 節の中を意識的に might be taken と書いたのです。その心理を説明しましょう。

whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest〔支配者が最高権力をもっていることに対して民衆があえて異議を唱えようとしたことはなかったし、おそらく異議を唱えたいとも思わなかったであろう〕と言われれば、読者の中には「いやそんなことはない。民衆は支配者の圧制に対し、それを抑えようとして様々な努力をしてきたではないか。圧制を抑える措置を取ることは、すなわち支配者が最高権力をもっていることに異議を唱えるということではないのか?」と考える人がきっといます。ミルはそういう疑問をもつ人に対して「最高権力の圧制的行使に対して予防措置をとることと、支配者が最高権力をもっていることに異議を唱えることは別問題なのだ(支配者は自分たちとは階級が違うのであって、彼らが支配者であるのは当然だと認めた上で、つまり、支配者が最高権力をもっていることに異議を唱えることはしないで、彼らの権力濫用を抑制する措置を取るということはありえますし、実際にそうだったのです)」と言うために whatever 節をつけたのです。ミルは whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest の後に「読者が抱くであろう一般的な疑問(上の下線部を読んでみてください。これは時間とは無関係な、すなわち timeless な一般的疑問です)」を想定し、それに一般的な表現(=whatever precautions might be taken against its oppressive exercise)で答えたのです

whatever 節に対する主節は、構造上(=表面上)は whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest ですが、意味上は that does not mean that men are contesting their supremacy itself〔それは支配者が最高権力をもっていることそのものに対して異議を唱えていることを意味しない〕なのです。ミルは、この「意味上の主節」を省略し「意味上の主節」に対する「譲歩の副詞節」だけを書いたのです(簡潔で引き締まった文体です)。これをあえて説明調にごたごたした書き方で書くと次のようになります。

whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest; there might be some people who argue that men endeavored to restrain its oppressive exercise, and suspect that to act so is to contest their supremacy, but whatever precautions might be taken against its oppressive exercise, that does not mean that men are contesting their supremacy in itself.

支配者が最高権力をもっていることに対して民衆があえて異議を唱えたことはなかったし、おそらく唱えたいとも思わなかったであろう。(これに対して)民衆は最高権力の圧制的行使を抑制しようと懸命に努力したと主張し、最高権力の圧制的行使を抑制することは支配者が最高権力をもっていることに対して異議を唱えることではないのかという疑問をもつ人がいるかもしれない。しかし、最高権力の圧制的行使に対してどんな予防措置が取られようとも、それは支配者が最高権力をもっていることそのものに対して異議を唱えていることを意味しないのである。

ミルは whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest, の後にいきなり whatever precautions might be taken against its oppressive exercise だけを置いています。なぜこんな(一見無茶に思われる)ことをしたかというと、whatever precautions might be taken against its oppressive exercise を見ればあとは何がイイタイのかわかる(この場合は that does not mean that men are contesting their supremacy in itself と言いたいのだとわかる)からです(少なくともミルはわかると思っているのです)。このように文の一部だけを見ればあとは何がイイタイのかわかる(少なくともミルが想定している読者にはわかる)という場合に、その「一部」だけを書いて、あとは書かないで済ませる、というのはミルの文体の一つの特徴です(一般的に言えば、頭が良すぎる人の文体の特徴です)。

実はイギリスの元哲学教授 Jonathan Bennett 氏が運営する Early Modern Texts という近代の哲学書を平易な現代英語で書き直すサイトにも Liberty が収録されています。そこにも

. . . whatever precautions might be taken against its being used oppressively.

とあります。これは have been でなくてよいのかとメールすると

I understand Mill’s “might be taken” to be tenseless: the possible precautions in question lie not only in a possible past but also in a possible future. Your proposed rendering cuts out the possible-future part of this.

との返答をいただきました。そこでもう一度、問題になっている一文の骨格を組み立て直して眺めてみましょう。

Whatever precautions might be taken against its oppressive exercise, men did not venture to contest its supremacy.

予想

予想. 薬袋 (2020) の “timeless” は de dicto 読み、返信の “the timed” は de re 読みのことが言いたかったのであり、その主張は “precautions” を de re 読みではなく de dicto 読みとすべきだということである。さらに、ここでの might be taken を might have been taken にすると de dicto 読みより de re 読みの方が自然になる。

de re と de dicto の定義(のうちよく使われる二つ)は次の通りです。

A sentence is syntactically de re just in case it contains a pronoun or free variable within the scope of an opacity verb that is anaphoric on or bound by a singular term or quantifier outside the scope of that verb. Otherwise, it is syntactically de dicto.

A sentence is semantically de re just in case it permits substitution of co-designating terms salva veritate. Otherwise, it is semantically de dicto.

詳しい記述については(いつものように)nLab が頼りになります。

ncatlab.org

たとえば「2021 年 10 月現在の日本の総理大臣が河野太郎である可能性はあったか?」と小学生に訊くと、だいたい「岸田文雄が河野太郎と同一人物になれるわけがない」と返ってきます。この読みを de re(事象様相)の解釈といい、普通の読みを de dicto(言表様相)の解釈といいます*1。一方で、“John believed the inventor of the lightning rod did not invent the lightning rod.” は de dicto で読むと矛盾してしまうので、de re で読む(つまりベンジャミン・フランクリンを代入する)のが一般的には適切になります。

もちろん、すべての文がどちらか一方のみを許容するというわけではなく、たとえば “Lee was assigned to assassinate the president in the USA.” は de re で解釈すると「リーはケネディを暗殺せねばならなかった」となり、de dicto で解釈すると「リーは(ケネディでもトランプでも)誰が就任していてもよいのでとにかく『アメリカの大統領』を暗殺せねばならなかった」となります。

私は might be p.p. と might have been p.p. の間にある de re 読みと de dicto 読みの尤度の違いについて全く知らないので、これはあくまでも未解決予想にすぎません。しかし、上に引用した薬袋 (2020) の長い解説がこの de dicto 読みをなんとか言い当てようとしていたのではないかという点については、かなりの確信を持っています。その上で、この de re と de dicto の違いを “the timed” と “timeless” という語に代表させてしまったのは方向性として不適切だったのではないでしょうか。一つには時間の違いがここでは副次的なものにすぎないということ、もう一つにはこの書き方だと whatever 節が過去と一切の関わりを持たないように見えるということです。

*1:他にも de se がありますが、ここでは問題にならないので大野 (2018) に投げておきます。