空論上の砂、楼閣上の机。

The Castle of Indolence

Reversed All-Pseudo-Cleft: “What I must do, is all that concerns me, not what the people think.”

はじめに

この前ふと Twitter を眺めていたら、薬袋善郎先生の「私家版 戦前入試問題で学ぶ英文解釈」シリーズ(67)が目に留まりました。普段はあまり見ていないのですが、今回は難易度が最高ランクだったので興味深く感じられ、じっくり考えてみました。実際に色々なところで議論が巻き起こったようなので、腕に自信のある方や私の意見に惑わされたくない方は下にスクロールする前に考えてみてください。

What I must do, is all that concerns me, not what the people think. This rule, equally arduous in actual and in intellectual life, may serve for the whole distinction between greatness and meanness. It is the harder, because you will always find those who think they know what is your duty better than you know it. It is easy in the world to live after the world’s opinion; it is easy in solitude to live after our own; but the great man is he who in the midst of the crowd keeps with perfect sweetness the independence of solitude.

結論から申し上げると、これは reversed all-pseudo-cleft と呼ばれる現象が起きており、出版されている正訳はただ一つです。

私は何をしなければならないか、これは私に關係した一切の事で、世人がどう考えるかなんといふ事は私に關係した事ではない。

戸川秋骨訳『エマアソン論文集上 自恃論』(玄黄社、1911)

本稿は、この文に対する薬袋先生の解説をいかにして英語学のことばに翻訳して位置付けられるかという挑戦の末に生まれた記事です。その過程では、薬袋先生との長きにわたる議論は言うまでもありませんが、久保岳夫先生や Aly さんが本稿の査読を快諾してコメントしてくださったことにも多くを負っています。この場を借りて謝辞を申し上げます。

枝葉末節

本論に入る前に、いくつか下らないことを先に片付けてしまいましょう。

一つ目のコンマ

まず多くの方が気になるであろう What I must do, のコンマです。難易度が最高ランクということでこのコンマを深読みしすぎた方が多くいらっしゃったようですが、実はこの文章をインターネットで調べてみるとほぼ全てが一つ目のコンマが削除された上で引用されています。なんと Project Gutenberg に収められているテクストも(!)コンマを削除しています。なので面倒だと思う場合はコンマを抜いて考えていただいて構いません。

ちなみに「主語を明示するコンマ」自体は19世紀以前にはよく見られます。

The very words necessary to express the task I have undertaken, show how arduous it is.

Mill, J. S. (1869). The Subjection of Women.

どういう経緯なのかはよく知りませんが、現代英語ではこのようなコンマに対して著しく不寛容になってしまったようです。

that 節

関係節の構造を all [that ∅︎ concerns [me, not what the people think]] という me と what the people think が並列されて concerns の目的語になっていると解釈した方もいらっしゃったようですが、英語は他の言語に比べても parallelism という「並列されたものは文法的にも意味的にも対等であるべきだ」と考える意識が非常に強いので、ましてや人と物が対等に目的語となっているというのは concern の持つ意味から考えても非常に考えにくいでしょう。

解釈の尤もらしさ

実は本問には「文法上可能な」解釈がいくつか存在するので、最初に「どのようにして文の解釈が定まるのか?」という問いに答えることにしましょう。次の文をどう解釈しますか?

Happy is he.

文脈もなく、ただ単純に Happy is he. とあるだけです。これに

これは CVS の倒置が起こっていて、元に戻すと He is happy. という意味になるだろう。

という解釈を与えることは、もちろん可能です。可能ですが、

倒置する理由が存在しないので Happy は人名と解釈すべきであり、文脈としては「ハッピーさんって誰ですか?」「ああ、ハッピーさんは彼ですよ」のような会話を想定すべきだろう。

という解釈の方がより尤もらしい(more probable)と言えます。私はポンと Happy is he. とだけ出されて「訳しなさい」と言われたら「ハッピーは彼である」と答えます。

その理由は、“なんとなく” で倒置できるほど英語はもう語形変化を残していないからです。一方でラテン語や古典ギリシア語はちゃんと情報を持っているので、逆に現代語の感覚を優先させると Homo sum. に「人間は存在する」とか Tu fui ego eris. に「あなたは存在した。私も存在した」とかいったトンデモな訳を付けることになってしまいます。もちろん、do-support とかV2語順とかの Sub-Aux inversion や there 構文とかの Sub-Verb inversion のうち義務的なものは、そりゃ倒置した文しか許されていないんだから対象外です。ところが倒置などしなくても伝わる文に対して「これは倒置だ」という解釈を提示するためには「その動機は何か?」に応答する必要があります。というより、そこが説明できないと「解釈の尤もらしさ」という連続的なパラメータが減点されてしまいます。アクロバティックなウルトラC級の統語的変形を要求する読みは基本的に疑った方がいいという実例を次の記事に記したことがあります。

www.all-for-nothing.com

www.all-for-nothing.com

しかし、もし話し手が映画 Star Wars シリーズの登場人物 Yoda だという文脈が与えられれば、Yodish では特に意味もなく倒置が起きるので、この文も倒置であるという前者の解釈が極めて尤もらしくなります。実際、Star Wars: Episode V – The Empire Strikes Back (1980) には次の用例が存在します。

Strong is Vader. Mind what you have learned. Save you it can.

Yodish に関する言語学的な考察としては Pullum の執筆した記事をご覧いただきたいのですが、少なくとも私はノーヒントでいきなり Yodish を話してくる英語母語話者を見たことがありません。それは可能的(possible)ですが蓋然的(probable)ではないのです。少し衒学的な標語としては「文の解釈全体の集合を規定するのが統語論であり、その解釈に尤度測度を与えるのが意味論と語用論だ」と言ってよいと思います。そもそも、自然言語はあくまでも人間が使うものなのですから、意味がバッチリ一つにしか定まらないような文ばかりを話せるわけではありません。

www.all-for-nothing.com

本稿でも「疑う余地なくこれこそが正しい読みだ!」と数学の定理のように “証明” することはできませんし、尤もらしさが微妙に割れてしまって日常の使用に耐えない場合は「袋小路文」とか「悪文」とか「二義文」とか色々と名前が付くわけですが、私も薬袋先生も何人かの英語母語話者も(尤もらしさを最終的に判断する権利を持つのは母語話者だけです)みな今回の Emerson の文について「これだけが極めて尤もらしい」と言える解釈に合意できてしまい、それが英語学の理論体系でピタッと説明できてしまった以上は、記事として解説する価値があると確信しています。

分裂文

分裂文とは単文で表せることを複文で表した文のことであり、狭義には学習英文法での「強調構文」を指します。その形態は It is X that .... というものなので it-cleft と呼ばれ、it-extraposition(仮{主語/目的語}構文)と区別する必要はあるものの、たとえば It is John that we love ∅︎. のように空所化されているので We love John. という単文を正しく復元することができます。ただし、it が単なる代名詞で X that ... が単なる関係節という場合もあるので各自で文脈判断してください。次の安藤 (2005) の例文はそのことを見事に物語っています。

A1: Who’s that?
A2: Who cleans the house—the man or the woman?
B: It’s the woman that[who] cleans the house.

先の It is John that we love. は It [that we love ∅︎] is John. から文末重心の原理によって関係節が外置されて出来たものなのですが、細江 (1926) の p. 167 にあるように元の単文の影響によって必ずしも一致の原則は守られません。

注意を引く爲めに用ひられたる It is…… の次に來る關係代名詞が主格たる時、その從文に於ける述語は此に對する補語と人稱數に於て一致する。例へば
 It is I that am wrong.
 It is you who make dress pretty, and not dress that makes you pretty.—G. Eliot.
これは今日如何なる文法家と雖も恐らく反對するものはないであらう。然も that の先行詞は明らかに It である。すれば何故に此の一致法が行はるゝかならば、前節 (1)(2)(3) の理が分かれば立所に諒解が出來るのである。卽ち “It” は文法の形式上 that の先行詞ではあるけれ共一度言者の腦裡に入つて見れば、それは決して次に來る叙述中に含まるゝ動作若しくは狀態等の主たり得る性質のものではないのである。卽ち換言すれば It is I that am wrong と言ふ時言者の腦裡に存する事實は I am wrong より外ないからである*。尤も稀には之に對する反例もある。例へば
 Nay, this time it is thou who forgets.—Scott.
*仏蘭西語に於て斯の如き事を言ふ二ツの形式を比較して見ても此間の消息がよく分かると思ふ。例へば “It is not he〔we の誤植〕 that said so” と云ふには
 Nous, nous n’avons pas dit cela.
 Ce n’est pas nous qui avons dit cela.
で兩方共 avons dit を用ふるのである。

この(中性の)it が先行詞だというのは共時的なこじつけではなく通時的な事実なので、実際たしかに Who is it? の it のように化石として各種表現に残存しています。

ここで大事なのは、分裂文の be は「命題関数となる名詞句の変項の値を指定する」という役割を果たしているということです。大雑把に言えば、たとえば John is a student. は具体的個体に属性を帰す文(措定文)ですが The leader is John. は命題関数となる名詞句の変項の値を指定する文(指定文)です。指定文の場合は A is B. と B is A. が意味内容的に同じ文になり、完全にイコール「=」と考えて問題ありません。ごく僅かな例外を除いて、分裂文の be は措定の be(ascriptive be)ではなく指定の be(specifying be)です。

擬似分裂文

専門家への注意. Huddleston and Pullum (2002) では pseudo-cleft を本稿の「what-擬似分裂文」だけに限っていますが、p. 1423 にも示唆されているように「all-擬似分裂文」も同等に扱われるべきものなので、ここでは「標準的な文と分裂文の中間的な特徴を持つ文」として定義します。all-擬似分裂文という用語は田中(1980)から採りました。

what-擬似分裂文

仮に That was a car which John bought. というバージョンの分裂文を考えてみましょう。外置を元に戻すと That which John bought was a car. = What John bought was a car. という basic what-pseudo-cleft が出来上がりますが、この was は指定を表していたので A car was what John bought. も同じ意味内容を有しており、これを reversed what-pseudo-cleft と呼びます。Blessed be he that cometh in the name of the LORD (Psalm 118:26) のような倒置(inversion)には必ずそれに対応する標準的なcanonical)語順の文が存在しており、したがって両者は完全に非対称的です。しかしながら擬似分裂文の basic/reversed には何ら英語に内在する非対称性は存在せず完全に対称的であり、「先に来るか後に来るか」程度の情報構造の違いしかありません(先に来るか後に来るかというのは非常に重要な差異ですが)。

なぜ「擬似」と呼ばれるのかというと、it-cleft が必ず対応する単文を有していたのに対し、擬似分裂文は必ずしも対応する単文を有さないからです。つまり、結局は指定の be が本質的に効いているだけであって、その形態論的な構造には必然性がないということです。

  • What is unique about milk is its richness in minerals and vitamins.
  • What I like about it is that it is so compact.
  • What went wrong was that the timer malfunctioned.
  • What I object to is that they won’t allow a secret ballot.
  • What they want apparently is that we should meet only twice a year.

これらに対応する単文を機械的に構成してみると基本的に非文になるので、ぜひ試してみてください。

なお、it-cleft を it-extraposition や単なる代名詞と単なる関係節の場合と混同してはならなかったように、what-pseudo-cleft にも混同すべきではない例があります。

  • What’s going to happen next is a mystery.
  • What we can do to stop them is the question we ought to be addressing.
  • What they did was a disgrace.
  • Her performance was what I’d call extremely competent.
  • The easiest such object to analyse is what we shall call a ‘rigid body’.

コツとしては、擬似分裂文は「○○なのは何?」という疑問に対し「それはXだ」という答えを与えるものなので、たとえば What they did was a disgrace. が仮に擬似分裂文だったとしたら「彼(女)らがしたのは何?」という疑問に対し「それは不名誉だ」と答えていることになるので、さすがにそんな意味不明な解釈を採るよりも単純に They did a disgrace. を迂言的に表現しただけだと解釈すべきです。

all-擬似分裂文

先ほど「その形態論的な構造には必然性がない」と述べましたが、実際に次のような対応を考えてみるとそのことがよく了解できます。

  • What impressed me was her wit. ↔︎ The thing that impressed me was her wit.
  • What I need is a little peace. ↔︎ All I need is a little peace.
  • *Who deserves the credit is Jill. ↔︎ The one who deserves the credit is Jill.

Huddleston and Pullum (2002) はこのように非文マーク * を付けていますが、これは近代英語では認められた構造です。シェイクスピア「オセロー」の有名な台詞がその代表例です。

Who steals my purse, steals trash.
わが財布を盗む者はくずを盗む者なり〈Shak.Oth III.iii.157〉

基本的に、all-擬似分裂文の all は the only thing に、what-擬似分裂文の what は the thing に対応していると考えて構いません。実際、All he had to do now was (to) pack his bag. はいわば It was only to pack his bag that he had to do now. と言い換えられるべきものであって、only を抜いた場合は意味内容が変わってしまいます。ここで「いわば」と書いたのは、動詞 do は不定詞を目的語に取れないからであって、逆に「all-擬似分裂文は不定詞を目的語に取りたいときに使える構文だ」と言うこともできます。

第一のトリック

What I must do, is all that concerns me, not what the people think.

もう一度よく見てみると、これには what 節と all that 節があり、かつどちらも擬似分裂文を形成することができるという超激レアな文だと分かります。まさにこのトリックこそが、この文に二つの解釈が統語上は存在しうる理由に他なりません。

  1. What I must do is X. の what が擬似分裂文を形成しているのだと仮定すると、It is X that I must do. と対応する。これは What must I do? という質問に対する答えに他ならない。この場合は not what the people think が補語になり、全体としては It is all that concerns me, not what the people think, that I must do. という分裂文と意味内容が等価になる。(解釈1)
  2. Y is all that concerns me. の all が擬似分裂文を形成しているのだと仮定すると、It is only Y that concerns me. と対応する。これは What concerns me? という質問に対する答えに他ならない。この場合は not what people think が主語になり、全体としては It is only what I must do, not what the people think, that concerns me. という分裂文と意味内容が等価になる。(解釈2)

この違いを薬袋先生は次のように端的に表現しています(ただし〔…〕は筆者注)。

〔解釈1の伝達する〕事柄1は I must do に「だけ」をつけられず、concerns me に「だけ」をつけられるのに対し、〔解釈2の伝達する〕事柄2は I must do に「だけ」をつけられ、concerns me に「だけ」をつけられない。

ただ、これだけでは両者の尤もらしさを比較することはできませんから、他の論点を考えてみましょう。

  1. この一文は後で “rule” と形容されているので「単なる事実認識」を意味するとは考えにくく、何らかの価値判断が含まれていれば尤もらしい。解釈1だと法助動詞 must の様相性が、解釈2だと only の唯一性がその役割を担う。
  2. what, all that, what と節が並んでいるのだから、parallelism としては一つ目と三つ目が対応していると非常に尤もらしい。解釈2が対応している。
  3. 解釈1「私がしなければいけないことは、私に関係する全てのことであって、世人が考えることではない」も解釈2「私がしなければいけないことだけが私に関係することで、世人が考えることは私には無関係だ」も文自体の自然さは大差ないが、解釈2だと the independence of solitude によく合致する。
  4. 上で見たように、what 節が擬似分裂文を形成しない(解釈2)ことはよくあることだが、all that 節が擬似分裂文を形成しない(解釈1)ことは稀である。
  5. 解釈2だと What I must do, not what the people think, is all that concerns me. の not what the people think が後ろに移動した結果、直前のコンマが(対比を強調するのにも主題として提示するのにも役立ちつつ)右方転位の痕跡として残留したのが一つ目のコンマだという合理的な筋書きを与えることができる。
  6. 教養ある母語話者がこの擬似分裂文の読み方について I must admit that the type 1 interpretation did not even occur to me when I first read the sentence. It is possible, grammatically, but it does not make obvious sense here, while type 2 does. とコメントし、さらに解釈1を Grammatically, sharing the “is” between the two clauses, [...], strikes me as very awkward. I don’t think you can do that. と評価して解釈2を支持した(これは薬袋先生からご教示頂きました)。

以上のことから解釈2が極めて尤もらしいと結論付けることができます。これこそがまさに reversed all-pseudo-cleft に他ならず、したがって inversion ではありません。倒置でなくても十分自然に読めるのですから、倒置されていると主張するためには情報構造的な動機をセットに記述する必要があります。ただ、what I must do という適切な話の掴みを主題化することに成功しているという解釈を捨てて、倒置しているという解釈を正当化できる根拠が私には全く思いつきません。

ちなみに、冒頭で紹介した戸川氏の翻訳以外は次のようになっています。書名や訳者はここでは本質的でないので省略しますが、薬袋先生の記事に無料で公開されています。

  • 余が為さゞる可からざる所のものは、全く余に係る所のものにて、世人が思惟する所のものに非ず。
  • 我が為さねばならぬことは、我に關するだけのことで、他人の思わく如何ではない。
  • 余の為さなければならぬことは、全く余に關することだけであり、人々の思惑如何ではない。
  • わたしがしなければならないことは、わたしにかかわるすべてであって、世間の人びとの考えることではない。
  • 私のしなければならないことは、私の心にかかることだけであって、人の思わくなどではない。
  • 私のなさなければならないことは、私にかかわる一切のことであって、他人の考えるところのものではない。
  • 私がしなければならないのは、私にかかわることだけであって、他人が考えていることではない。

全て not what the people think を補語と捉えた解釈1を採用しています。

第二のトリック

しかし、擬似分裂文の be は「=」を意味していたので、主語と補語を交換しても伝達する意味内容は等価です。したがって All that concerns me is what I must do, not what the people think. という CVS の倒置だと捉えても、本当に母語話者的な正しい直感による発想なのかまぐれ当たりなのかは分かりませんが、意味内容だけは正しく取れていることになってしまいます。これが第二のトリックです。

倒置と捉えられない根拠はあくまでも標準的な語順で読める文をわざわざ倒置と考える合理性がないので尤もらしくないからに他なりませんが、それとは別のパラドキシカルな難点として、本当に言いたいことは It is only what I must do, not what the people think, that concerns me. だったはずなのに上の “等価な” 文を分解して得られる All that concerns me is not what the people think. は「私に関係することのすべてが世の人々の考えることと異なる」という単なる全否定の解釈を許容してしまいます。ここで注意すべきは、このパラドックスは all や not に由来するのではなく、むしろ「文を分解する」という操作に由来すると考えるべきだということであり、この逆説性を理由に解釈の尤もらしさを減じることはできないということです。

とはいえども、これがパラドキシカルであることも同様に確かなので、やはり Emerson は熟考の末に元の文を書いたのだと推察できます。実際、この一文は段落の始まりなので、それなりに気合いが入るはずです。推察を超えて妄想するに、本当はたぶん一回ぐらい All that concerns ... とかで始めようとしたのだと思いますが、それで「あっ、これじゃちょっとマズいな……」と思って話の流れと上手く合うようにしつつも誤読を防ぐ方法を考えて10分かそこら試行錯誤したのでしょう。

なぜ言語は難しいのか

それにしても、なぜこんなに言語は難しいのでしょうか。それは言語や会話の本質構造は二次元であるがその伝達手段は一次元だからです。会話の本質構造が二次元であることは特に Twitter をやっていると非常によく了解できるはずであり、たとえば「返信し終わったら相手が新たに返信を追加していたので、二つに枝分かれしてそれぞれの会話を続ける」という経験をしたことがある方は多いはずです。しかしながら Twitter の DM や LINE では一次元の伝達手段しか許されないので、相手がメッセージを打っていて「…」のマークが出ていると(あっ返信来るの待っとこ)と、会話を一次元的に進める配慮をしがちな方も多いはずです。どうしてもそれでは無理だと感じた場合には相手の発言を引用した上でコメントを書く方も多いはずですが、これは逆に冗長になるコストを支払ってでも会話を二次元へと引き延ばす努力に他ならず、LINE がリプライ機能を実装したのも一種の二次元化であると考えることができます。

言語の本質構造が二次元であることは生成文法とかでよく出てくる構文木をご覧になったことがあれば非常によく了解できるはずですが、そのことを実感できる非常に良いツイートが前に話題になっていたので引用します。

f:id:all_for_nothing:20210720120901p:plain

この一次元から二次元へのギャップを埋めるために(二次元的な情報を一次元に “射影” した際に失われる情報を可能な限り復元できるように)発明されたプロトコルこそが、句読点やイントネーション、アクセントなどといった言語的特徴に他ならないのであり、我々は学校教育などを通じて何十年にもわたって「いかにして人間は次元のギャップを乗り越えようとしたか」を学習し体得していくのです。その究極的な用法として次のような衝撃的なコンマがありますが、これだって二次元的な図さえ書いてよいのであれば難しくありません。

www.all-for-nothing.com

なぜ後天的に学習する必要があるかというと、乗り越える手段は複数存在するからであって、その言語でどれが採用されているかは必ずしも必然的なものではないからです。たとえばある文が Yes–No 疑問文であることを示すために、日本語や英語では文末でピッチを上昇させますが、ロシア語では疑問の中心となる語でピッチを上昇させます(文全体が疑問になる場合は述語動詞でピッチが上昇します)。他にも、関係節の制限用法と非制限用法をコンマによって区別するのは英語やフランス語ぐらいで、ドイツ語もスペイン語もロシア語も形態上の差異はありませんし、もちろん日本語もその一つです(実は日本語の関係節は類型論的に特徴的であることが知られています)。ところがアラビア語は先行詞の定性によって区別がなされます。このように、各言語がどのようにギャップを埋めようとしているかは多種多様なものになっています(しかし法則性もあると考えて探究するのが言語類型論です)。

言語の伝達上の困難がほとんどの場合その二次元的構造を一次元的手段に落とし込んでいることに由来するという認識を示している文献は、しかしながら、私もかれこれ十数年間も生きてきましたが伊藤和夫『英文解釈教室』しか出会った覚えがありません。

f:id:all_for_nothing:20210720120925p:plain

ここで注意すべきは単なる矢印の集合ではなく括弧がしれっと追加されていることです。実は、括弧には非常に強い表現力があり、誤読を限りなく排除しようとする人工のプログラミング言語があれほどに括弧にうるさく拘るのも括弧の表現力を正しく取り扱ってほしいからに他なりません。特に括弧が階層ごとに書き分けられていると非常に見やすくなるので、日本の中等教育までの数学では小括弧()・中括弧{}・大括弧[]という記法が(国際的には小括弧以外が必ずしも統一されていないにも関わらず!)多用され、プロの数学者や物理学者でも板書だけはこの書き分けをするという方がそれなりに存在するのです。ちなみに、読点(、)が引用符の終わり(」)を意味することもありますが、その場合は始まり(「)がどこにあるかは示されないことが多いです(もし始まりも読点によって示されていたとすれば、最初から引用符を対にして使えばよいことになるから)。

……という事実が世間で広まってくれたら個人的に住みやすい世の中になると思うので、コピミズム伝道教会の一信者としても読者の方々が折に触れてどんどんコピペしていただけたら嬉しいなと思っています。