空論上の砂、楼閣上の机。

The Castle of Indolence

通い婚は必ず契るか?

問題1. 平安前期の貴族の婚姻形態は妻問婚(通い婚)で、通うことが契ることを意味したとされるが、毎日通うということは毎日契ることを含意するのか、あるいは契らずに会うことがあり得るのか?

という問題をだいぶ前に日本語同好会の友人が提起して、それなりに議論をしたのでメモしておきます。

友人はここで「契る」を「セックスする」という意味で用いており、この問題を考えたきっかけとして『夜の寝覚』の「中納言が、一目惚れして一度契った中の君(この時点では正体不明)にこっそり(だけどバレバレの)ガチ恋して探し回る中、昔から決まっていた大君との婚姻が成立したので夫婦円満を装うために毎日通う」というシーンが引用されます。

いみじく心のうちに深くも浅くも思はむことを、人の、色に出でて、目とどむべくもあらぬ御様なれば、をさをさ夜離れなくありつきながら(寝覚・26)

つまり、もし通うことが契ることを含意するのだったら「週7セックス」ということになるけれど、本当にそんなことが普通だったのか? ということです。ちなみに、この後で大君が中の君の姉だと判明し、中の君は一回で懐妊しているという昼ドラもびっくりの泥沼展開が続くそうです。自分は読んだことがないので分かりませんが。

それに対し自分が論点にしたのは

  1. 「契る」が本当に「セックスする」を意味していたのかどうかを知ることは原理的にあり得ないのではないか。
  2. そもそも「セックス」という概念が規定されたのは発生学の確立によってのみではないのか。
  3. 仮に「通ったらセックスせねばならない」という規範が存在していたとしたら、たとえば「平安後期にかけてこのルールは形骸化した」のような何かしらの形でその存在が後世に伝わっているはずだが、そのような形跡は見当たらないのではないか。

ということです。論点3は読んで字の如くです。論点1について友人は、たとえば接吻だけすることを、古事記にも用例のある「目合ひ(まぐはひ)」と形容できないのではないかと指摘してくれたので、自分は「原義はあくまでもアイコンタクトであり、各行為に名前を付けることはできるけれど『契り』が必然的に性器の挿入を伴うかは怪しいと思っている」と返しました。

いずれにせよ、論点1は論点2から導かれることなので、論点2を標語的に問うことにしてみましょう。

問題2-1. 人類から性行為に関する知識を全て消し去ったとして、ペッティングとセックスを発生学的な事実によらず区別し得るか?

つまり、発生学によって「性器の結合が性行為である」と遡及的に定義されたのであって、それ以前はおそらく「キスや愛撫を含んだ包括的な性的行為」として「イチャイチャ」のような連続体を成していたのではないのでしょうか。なお、もしこの思考実験の想定が非現実的だと思われるならば、次の形で問うても同じことです。

問題2-2. 野生のヒト(野生児)はセックスを知り得るか?

たとえば鳥の一部は餌の取り方を親鳥から学ぶ(から親がいないと相当死にやすい)わけですが、動物も人間も、親や周りと全く接触がなかった場合、どれだけちゃんと繁殖できるのでしょうか。ここは科学の出番です。

全国各地の動物園では、ほとんどのゴリラは1〜2個体で飼育された。そのうち繁殖に成功したのは5施設9例のみである(表3)。その原因としては、幼い頃から一緒に飼育した個体同士はお互いを兄妹のように認識し、性成熟に達しても交尾に至らない(浅倉, 1994; 中川, 1999)などが考えられる。また、子供の頃に母親から取り上げられ人工哺育されたゴリラのメス個体は、母親に飼育されたメスに比べ繁殖が成功しにくい傾向があり、子供の頃の同種との社会的経験が繁殖行動においては重要であることが明らかになっている(Beck & Power, 1988; Meder, 1989)。本来はシルバーバックと呼ばれる雄ゴリラを中心とした複数メスのいる群れで生活し、その中で繁殖の方法を学ぶゴリラが(山極, 1998)、少数飼育の環境下のために必要な社会学習をできなかった結果と考えられる。また、国内飼育下のオスゴリラの精巣を調査したところ、造精機能の低下が観察された個体が見つかった(Enomoto et al., 2004)。この結果から、飼育環境下での運動、栄養、長期の心理ストレスなどが、ゴリラの繁殖機能に影響を及ぼしている可能性が示唆されている。……チンパンジーの国内での繁殖は1962年に福岡市動物園が成功して以来(小森, 1964; 吉原, 1999a)、王子動物園や京都市動物園、多摩動物公園が成功した(亀井, 1976)が、母親による育児放棄で人工哺育になることが多かった(吉原, 1983)。また、交尾行動自体ができないチンパンジーも多かった(金田, 1992)。1歳までに母親から離されたチンパンジーの半分以上は交尾行動ができない(King & Mellen, 1994)ように、チンパンジーの繁殖行動や社会行動などには、コドモ期の母親による育児や群れでの学習が不可欠である(Fulk & Garland, 1996; 吉原, 1999b)。アフリカから輸入されたチンパンジーの多くは、生後数ヶ月から数年で母親から分離され、国内に移動した後、単独飼育やペア飼育で飼育されてきた(松沢, 1992; 吉原, 1999a)。育児放棄や交尾行動の欠如といったチンパンジーの行動上の問題は、こうした捕獲・輸送・人工哺育などでコドモ期の社会的学習がうまくできなかったためだと思われる。

野生のように、育った課程において小さな頃から同じ年代の子と遊んだり上下のゴリラの関係に揉まれたりしたゴリラだと学んでいけるんですが、日本の動物園では圧倒的に数が少ないので学べないのだと思います。オスだったら交尾の仕方がわからない、メスだったら子育ての仕方がわからない。他のゴリラから学習する機会がなかったということが影響をしているのでしょうね……

したがって問題2は、少なくともゴリラやチンパンジーの場合では「非常に困難である」と言うことができ、当然ヒトの場合もそうである(あるいはより困難である)と言えます。実際、昔の日本人が後天的にセックスの仕方を学ぶ逸話や文化があることが知られているようです。

日本書紀には、日本神話の国産みの伝承の一つとして、イザナギとイザナミが性交の仕方が分からなかったところにセキレイが現れ、セキレイが尾を上下に振る動作を見て性交の仕方を知ったという内容の異伝に関する記述がある。婚礼の調度に鶺鴒台があるのはそれに由来する。

我が国における春画の歴史は、遠く古く、奈良時代の建築や仏像の落書などにその片鱗がうかがえるのに始まり、平安時代にはすでにかなりの発達をみていたことが、鳥羽僧正覚猷(かくゆう)(一〇五三〜一一四〇)に関わる逸話(『古今著聞集(ここんちよもんじゆう)』巻十一「画図」第十六)からも知られる。「ふるき上手どもの書きて候おそくづの絵」でも「その物の寸法は分に過(すぎ)て大(おおき)に書」くものであり、「ありのままの寸法にかきて候はば見所なき物に候故に、絵そらごととは申」すのだとあるから、〝おそくづの絵〟、漢字で表記すれば〝偃息図の絵〟(「偃息(えんそく)」は横になって休むという原義から男女同衾(どうきん)の意となる)、すなわち春画が、すでに平安の昔から珍しいものでなかったことが分かる。そしてまた、「その物」を実際より誇張して大きく描くことが一つのコンベンション(常套の手法)として定着していたことさえも知られる。歴史はすこぶる古いところまでさかのぼるのである。

以上の事実や論点を鑑みて、問題1に対しては「通い婚では一種の不文律(お約束)として、往々にしてセックスを伴う求愛を行ったが、それが伝統やルールとして定式化されることはなかった」という立場を取ることにしました。

後日、友人が「通い婚で契らないパターンも大いにある、あまり描かれないだけで」という話を聞いてきたことを報告してくれました。どうやら『堤中納言物語』などに描写があるらしいですが、どこにあるんでしょうね?「はいずみ」とかかな?