空論上の砂、楼閣上の机。

The Castle of Indolence

第2の that の省略

免責事項. 本稿はまだ筆者が整理しきれていないことを書き連ねた現在整備中の記事です。予想外に読者諸賢からコメントを頂けたので、受験勉強の合間を縫ってちょこちょこ書くつもりですが、実質的にまだ書き途中の記事になっていることをご了承ください。

伊藤 (1997) には次のような記述があります(ただし 3.2.3, 3.2.4 の解説は省略しました)。

この種の S+V+that... の構文で that 節が2つあるとき、第1の that は省略できる(→3-2-3)が、第2の that は省略できないと教えられることが多い。しかし、現実の英文では第1の that を残して第2の that が省略されていることも多い(→3-2-4)ので、他動詞の働きがどこまで及ぶかが問題となるとき、that の有無はあくまでも判断のためのひとつの材料であって、文の内容が優先すると考えるのがよい。

3.2.3 I think we are all born with the gift for enjoying beautiful things, but that we are indifferent to many of them because our attention was never called to them in childhood.

3.2.4 The middle-class American isn't, in his heart, sure that even the rebels are altogether wrong. Some, in fact, agreed that young people were not unduly critical of their country, and their criticism was actually needed.

なかなかお目にかかった覚えがないのでモヤモヤしていましたが、柴田 (2017) に次のような記述があるのを発見しました。

次のような場合に見られることが比較的多い。

(1) 二つの節の動詞が be 動詞 (2) 対立・対照または因果などで、一続きに読める (3) 教養無い人の文

たしかに be 動詞の場合はどちらも that を書くのが普通なのは明らかなのですが、(2) についてはなかなか面白い考察だと感じました。自分の感覚としては、that と言うことによって I think that をもう一回言い直すのと同じことになっている気がします。ここで大事なのは、そこに「わざわざ that 節の中であることを明示した」という意図があることです。それゆえ単なる and という接続詞よりも “強い” 接続が滲み出ているはずで、それは対立や対照や因果などであって然るべきという話だと思います。「一続き」であることは本質的ではない気がします。

他の文献にも絶対記述がある話なんだろうと思っていますが、受験も迫ってきているので今さら Huddleston & Pullum (2002) やら安藤 (2005) を読み直せるはずもなく……情報がありましたらぜひコメント頂けると幸いです。

追記 読者の方からコメントを頂きました! まさか情報を頂けるなどとは思ってもみなかったので嬉しい限りです。まず Huddleston & Pullum (2002) は次のように述べていました。

ii e. It was possible [that she was ill and that her mother had gone to see her].

In [iie] the repetition of that makes clear that the coordination is between subordinate clauses: without the second that the second coordinate (her mother had gone to see her) could be construed as a main clause, and hence as being presented as a fact rather than a possibility. (In many cases, of course, it will be clear from the sense that the coordination is at the level of subordinate clauses, and the second that will then be readily omissible: It is possible [that you are right and I am wrong].)

前半は「that 節の中ではないとも解されるよ」と書いてあります。当たり前です。ところが後半については母語話者が「まあ大抵の場合はわかるから省略できるけどね〜」と述べているという点で重要な記述だと思います。ここで安藤 (2005) を見てみると接続詞が and, but の場合に補文標識の that を繰り返して文脈を明らかにすると説明されています。しかし上の例を見ると、強いて言うなら、コンマの後にという条件の方が大事ではないでしょうか。というより、補文標識の that を繰り返して文脈を明らかにする必要があるほど論理性の高い文脈と、あえて補文標識を省略するという操作の相性が悪いからな気がします。ともかく、両者とも説明に不十分さを感じます。

これは個人的感覚にすぎませんが、第2の that は “重い” です。第1の that は別に重さも何もないんですが、第2の that を(しかも最初は省略したのに)あえて言うところにかなりの重さを僕は感じます。ただこれも傾向にすぎないわけですから、結局「他動詞の働きがどこまで及ぶかが問題となるとき、that の有無はあくまでも判断のためのひとつの材料であって、文の内容が優先すると考えるのがよい」という話に帰着する気がします。やはり伊藤和夫の慧眼ということなのでしょうか。また考えがまとまったら書き直すかもしれません。

参考文献

伊藤和夫. (1997). 『英文解釈教室』(改訂版). 駿台文庫.
柴田耕太郎. (2017). 『決定版 翻訳力錬成テキストブック: 英文を一点の曇りなく読み解く』. 日外アソシエーツ.
Huddleston, R., & Pullum, G. K. (2002). The cambridge grammar of english language. Cambridge University Press.
安藤貞雄. (2005). 『現代英文法講義』. 開拓社.