空論上の砂、楼閣上の机。

The Castle of Indolence

「論理の貫通」

 僕は「論理の貫通」という語が好きだ。この語は林修氏の授業用語であり、風の噂によれば2009年ごろに発明されたものらしい。現在では氏のアイデアをパクったのだろうか、巷でもちらほらと聞くようになってきた。僕は数年間にわたり氏の講義を受けてきたもののどうにもこの語に腑に落ちないところがあり、この前ようやく自分なりの納得をしたので記しておこうと思う。

 氏が「筆者–出題者–受験生」の三項対立を全面に押し出しているということは割と有名であると思うし、そのモチベーションも「出題者たる大学教授が読むように学生が読めなかったら授業になりませんから」とどの講座でも最初に必ず解説している。(若い頃は反発していたが)最近歳を取るにつれしみじみとこの言葉の重みを感じるようになった。本当にこの通りだと思う。
 そのために物書きが伝えるために使う特殊な様式を理解することが大事であると主張し、その中の大きな一つとして「論理の貫通」があるとしているわけである。これはすなわち、ある段落が「A……A」あるいは「問題提起……回答」という構造になっている場合、その段落は「Aワンメッセージ」であるということである。例はいくつか思い浮かぶが、ちょうど手許にあるものを見てみよう。

2008年センター試験  近代の空間が失ってきたのは、実は深さの次元である。近代建築がめざししてきたのは明るい空間の実現であった。ピロティ、連続窓、ガラスの壁、陸屋根は、近代建築が明るい空間を実現するために開発した装置である。人工照明の発達がそれに拍車をかける。明るい空間が実現するにつれ、視覚を中心にした身体感覚の制度化がすすんだ。視覚はものと空間を対象化する。空間は測定可能な量に還元され、空間を支配するのは距離であり、ひろがりであると考えられるようになった。それと同時に、たがいに異なる意味や価値を帯びた「場所性」が空間から排除され、空間のあらゆる場所は人工的に均質化されることになった。こうして、場所における違いをもたないユークリッド的な均質空間ができあがる。
 深さは、空間的には水平方向における深さをあらわしている。幅に対する奥行である。しかし、均質化された近代の空間にはこの奥行きが存在しない。なぜなら、均質空間はどの場所も無性格で取り換え可能だから、奥行は横から見られた幅であり、奥行と幅は相対化された距離に還元されてしまうからだ。均質空間では、幅も奥行も「距離」という次元に置き換えられる。したがって、そこにあるのは空間のひろがりだけであり、深さがない

 なるほど確かに言われてみれば論理が貫通している。これはセンターレベルだからまだ簡単で東大レベルの構造把握であればもっと大切になってくるのだが、それはさておいてもとりあえずそう変な話ではないことは少なくとも明白だ。だが氏はこれを「物書きは論理を貫通させて伝えようとする」というように恰も自然現象の観察事実のように述べているような簡潔な説明で済ませていて、自分のような劣等生にとってはどうにも次の二点が疑問だった。

  • 論理の貫通を把握して何になるのか?
  • なぜ物書きは論理を貫通させたがるのか?=論理の貫通のモチベーションは何か?

 中学一年のときにちくま評論選を読んでいたら頭括型・尾括型・双括型という区別がなされているのに気付いた。当時は「だから何?」で飛ばしていたのだが、今になってなぜあのような区分が大切であったか理由がわかった。それは西洋語の文章作法(とくに論文)においては双括型(あるいは頭括型)が尊ばれるということだ。実はこれが身も蓋もないが一番本質的な要因なのである。英検を受けたことがあれば誰でも Introduction → Body → Conclusion という様式を遵守し、Introduction と Conclusion は(表現的差異を除いて)同じ主張を書かねばならないと了解している。英検が最もシビアというだけであって、他の英作文を含む試験も多かれ少なかれそういうものである。西洋の知識階級層はこの型を律儀に守って学術研究を成し、それが日本に輸入されることで純アカデミズム的な文章のみならず西洋語的な文章は多かれ少なかれ(まるで主語を明示したり無生物主語を多用したりするかのように)双括型を用いるようになった。ところが日本語は頭括型の方が性に合っているので、学術的訓練(=ディシプリン)を受けることで慣れないとこの様式を構造的に把握することが難しい。そういうわけでセンターはもちろんだが、東大では特にこの西洋に影響されたアカデミズム的な文章の息遣いの代表例として双括型の構造を正しく見抜けるか問う傾向にある。
 ……いやおそらく作問者は「双括型を出す!」というわけではなく「ここは構造が読めない受験生は死ぬだろうね〜」とか言いながら上手く作っているのだろう。その勘はまさにアカデミアでの長きにわたる徹底的な人文学的トレーニングにより研ぎ澄まされたものである。少なくとも自分は適当に英文を出されて「問題を作れ」と言われたらポンポン作ることができる。というより普段から英文を読むときに「あ、ここ和訳させると死んじゃうね」とか「ここに is を足して語文指摘問題*1にしたら分からないんだろうな」とか考えている。自分はマニアだが、それでも英文解釈を少しでも勉強したものは多かれ少なかれそういうところはあるはずだ。安易なアナロジーかもしれないが、おそらくそういうノリはやっぱりあるのではなかろうか。東大英語 4-(A) の作問者はおそらく楽しいのだろうと思うし、現代文でもうまく読解力で差をつける問題を作れたら嬉しい気がする。

 そう考えると先の疑問には次のように答えられるのではないか。西洋のアカデミアにおける文章の規範とされる双括型が輸入されたことにより、日本語にとっては些か異質でありながら学術的な文章には多用される構造を氏は論理の貫通というキーフレーズをつけることで明示的に「これが物書きの伝え方だ」と気づくよう促しているのだ、と。

 氏は非常に聡明であるが、自分のような人間にとってはこういったモチベーションからクリアに見通せる方が嬉しいもので、むしろ苑田先生に近しい思考法であると自認している(未だなお両者には遠く及ばないが)。残念ながらそういった人間はマイノリティー側なので、本ブログはそういった態度をかなり全面に押し出して執筆することで昔の自分のような人間に示唆を与えられたらとは思っている。今回は「論理の貫通」という語についてのポエムだったが、これが氏の意図するところと(せめて)かけ離れていなければ幸いである。

*1:It is not only documents his contribution to public-key cryptography, but includes his thoughts on the secrecy that so often surrounds cryptographic work. 2000年一橋後期を読みながら作った。