空論上の砂、楼閣上の机。

The Castle of Indolence

天啓

注意. 本作品はすべてフィクションであり、実在の人物・団体・地名とは一切関係なく、また本作品に多く含まれる過激・不適切な表現はいずれも犯罪行為を教唆・幇助・助長、ないしは個人を誹謗・中傷することを意図したものではありません。自己責任において、フィクションとして楽しむことをご理解いただいた方だけ読み進めてください。

 雲が空にあるさまを僕は「のっぺり」と形容したくなる。空に永遠に変わることなく漂い続けるさまにはどうにもむかついて仕様がなかった。春先の雲ほど僕を苛立たせるものはなかった。
 僕は小学二年生のときに国語の時間で「死を恐れないカエルの長老」の話を読んだことがある。本当にそういう話だったのかはもうわからない。でも周りが死をひどく恐れていたことだけは覚えている。僕には死それ自体はどうにも怖くなかった。学級文庫にある歴史マンガには秦の始皇帝が不老不死を求め猛毒の水銀さえ飲んでいたとあって何とも言いようのない気持ちに駆られた。僕はきっと永遠に対して羨望を抱かない人間なのだった。むしろ僕は永遠を悉く嫌っていた。

 彼女はバイセクシュアルだった。特に隠すわけでも言いふらすわけでもなく、いわんやカミングアウトなどという仰々しい感動ポルノをひどく憎悪した。それは無礼の象徴であり、悪徳の象徴であった。
 彼女は七つ上の大学院生だった。早生まれで相当に苦労したらしく、彼女はつねに「苦悩が深いほど人としても深くなる」とつぶやいていた。でもそんなのはただの自己正当化にすぎないことなんて、彼女自身でさえわかっていたはずだった。人間としての深みのために生死を彷徨う苦労を厭わねばならないのなら、薄っぺらいまま死ぬほうが楽。口でこそ語らなかったが、僕と彼女のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった。
「なあ」
「はい」
「男は好きか?」
「総称判断なら違いますよ」
「好きな男はいるわけか」
「まあ」
「どのくらい好きなの?」
「もう四年の腐れ縁ってだけですよ」
「付き合って四年もか?」
「いいや友達として四年」
「……悲しいやつだな君も」
「そうですね」
「今のは悪い冗談だよ、ごめん」
 彼女はべろべろに酔っていたから僕は特段気分を害することはなかった。素面でもとくになんとも思わなかっただろう。単純に僕が悲しいやつだと改めて実感しただけだったからだ。
 彼と出会ったのは中一のときだった。同じクラスであったから、といってもあまり話す機会はなかった。彼はただの少し生意気で育ちの良さそうな同級生に過ぎなかった。育ちの良さそう、というのは実際正しい直感であった。有名な名門私立小学校出で生まれもよく、僕には遠い世界の住人であった。彼が少し世間知らずに見えたのは、単に多動の気があるからだけではなかったのだろう。中二になって僕は突然彼に惹かれた。あの理屈の入り得ない衝動を恋と呼ぶのだろうと思った。僕の初恋は誰かと聞かれればそれは彼に他ならなかった。話題が格別に合うというわけでもないし、あるいはめっぽう優秀なわけでもなかった。それでも顔立ちは端麗で、聡明で、裏表のない良いやつだった。いわゆる交際関係にあったことは一度としてなかったが、友人としてはそれなりに交流を続けてきたと思う。ただし「ともだち」というよりかはむしろ「腐れ縁」に近いものだった。それでも僕にとっては腐れ縁で十分だった。僕にとって彼は鏡で、彼の反応はすべてそのときの僕を立ち振舞いを写すものだった。僕は、全く彼にだけは敵わなかった。
「先輩こそどうなんですか?」
「最近は女日照りだよ」
「なるほど」
「君こそ私に会う前はどうだったんだ?」
「一年ほど前に行きずりで」
「……いったい、君に彼女がいたことは」
「先輩はなってくれないんですか?」
「やっぱり君は病気だな」
「でしょうね」

 思えば、僕と彼女がこうして交流しているのは不思議なことだった。大学の学園祭を見学しにいったとき、とくに動機や理屈の入り込む余地なく自然と話すことになった。おたがい、割に話がよく進むものだから連絡先を交換し、何回か食事をするうちに僕たちは仲良くなり、親友でもありながら良き後輩でもあるようになった。
 どれだけ良い後輩であったか。三回目の食事として先輩に飲みに誘われたとき、後輩の前だからと調子にのって白ワインを一・五リットル飲み干した。会計を済ませ店を出ると急に先輩に肩を掴まれ、振り返ると僕の目を見つめ始めた。あの物憂げな黒い双眸ほど心を締め付けるものはなかった。あの赤い唇ほど僕を奮い立たせるものはなかった。黒いカットソーにベージュのワイドパンツ、黒のショートボブ、両耳にはハワイのイアリングを垂れ下げていた。西欧風の顔立ちをしていて、日本一般の基準だとどうかはわからないが僕にとってはこれ以上可愛い女性がいるのか想像できなかった。僕は息を呑んで目を合わせていた。彼女の甘い吐息と熱気が鼻を伝ってくる。きっとこのまま二人だけで世界は終わってしまうのかもしれなかった。
 先輩は僕にゲロをぶちまけた。あの美しい喉から鳴っているとは信じられないような音を立てて、胃液に浸されたドロドロに消化される前の固形物が僕の服をカラフルに彩った。僕にはそれがどうにもおかしくてたまらなかった。愉快で仕方なかった。
 先輩はもう完全に酩酊していたから近くに草むらに残りを吐き出させて、とにかく被害者を僕の衣服だけに留めさせるようにした。持っていたペットボトルの水で固形物を流して、アスファルトに落ちた分もなんとか靴で草むらの土に蹴落とした。あとは微生物に頑張ってもらうしかなかった。先輩はスッキリしたようでぼうと立ち上がり「あー……すまん」などとぼやいていた。
「大丈夫ですか」
「……歩いて十分ぐらいのところに私の家があるからそこでなんとかしよう」
「いいんですか?」
「それはこっちのセリフだ、ごめん」
「いいえ全然」
「ありがとう」
 先輩らしくできなかったどころか後輩にゲロをぶっかけてしまったので涙目も涙目のようだった。彼女は良いマンションに住んでいた。床につかないように気を払いながらなんとかエレベーターまで向かって僕たちは五階の部屋まで向かった。
「服と靴をそこで脱いで、私にちょうだい。あなたはお風呂に入って、私はこれどうにかしとくから」
「どうするんですか」
「……今日は泊まって行く?」
「男物の服とかないんですか」
「あると思う?」
「あると思ってました」
 夜更けのマンションの廊下でゲロのついた服と靴を脱ぐのはどうにもバツが悪かった。近所の住人に見られたら先輩はいったいどうするつもりなのだろうか。僕にはどうにも先輩のことはよくわからなかった。言われるがままに玄関に入り、床を汚さないよう浴室まで向かった。
「服はまあなんとかしておくから、体を洗っておいてくれ。どれがどれなのかは、まあわかるよね?」
「ええたぶん」
「ごめんな」
「全然気にしないでくださいよ本当に」
 それにしても彼女の浴室は僕の何かを駆り立てるものがあった。それは性欲や好奇心というだけでは留まらない、いわば神聖さとそれに付随する背徳感があった。これが先輩の使うシャンプーで、これが先輩の使うリンス、これは先輩の使うボディーソープで、これは先輩の使う洗顔料、これは先輩が座る椅子で、これが先輩の入る浴槽。どれも良い匂いがしていて、憧れの先輩らしかった。僕がシャンプーで髪を洗い終わると先輩の髪の匂いが漂うのがわかった。ボディーソープで体を洗うと先輩の体の匂いがした。僕は先輩に欲情していた。それでも落ち着かないと収まらない。収まらないと浴室から出られない。こういうときのためにヨガというものは考案されたのだろうか、僕は深く呼吸して煩悩を吐き捨てた。洗い終わって扉を恐る恐る開けるとタオルがあったので遠慮なく使わせてもらった。ゲロをかけられたのにタオルを使って怒られる道理はないだろう。僕はタオルで体を拭きながら、なんだか彼女のゲロの感触がどうにも恋しくなっているように思えた。
「あがった?」
「ああはい」
「そこに女物のパンツがあると思うけど、それで今日は我慢できる?」
「ええ?」
「無理か……コンビニでパンツ買っておけばよかった」
「泥酔した女とゲロのかかった男がパンツ買ってたらコンビニも迷惑ですよ」
「じゃあ仕方ないね」
「タオル下に巻くだけで良いですか?」
「それでいいならぜひ!」
 僕には本当に先輩がよくわからなかった。僕はオレンジ色のバスタオルを出して腰に巻き落ちないよう留めた。とにかく僕には先輩の声のする方に向かうことが最優先だった。 ドアを開けると先輩はテーブルを整理していた。
「私もシャワー浴びないとどうしようもないから、とりあえず暇つぶしてていいよ。何飲んでも何食べてもいいから」
「いや、お気兼ねなく」
「ゲロ浴びせた相手にお気兼ねしないわけないでしょ」
「たしかに」
 ……だいたい、素っ裸にちょっと一枚程度のバスタオルを巻いた状態で静かなリビングの木製椅子に座っていること自体おかしい。こういうのはシュルレアリスム屋の仕事であって僕が現実で体験する義理はとくにないはずだった。そんなことを思ったところで、女性のシャワーというのは秋の夜長よりも長い。テーブルには「ばかうけ」があった。いやなぜ「ばかうけ」なんだ? それも青のり味。むしろ僕はハッピーターンが好きだった。それでも先輩が青のり味のばかうけが好きというのはなんだかちょっと可愛いように思えた。先輩の好きなところはクールさにあるのにお菓子はばかうけだった。僕は徐にばかうけ青のり味の袋を手に取り両端を持って開けた。中から一つたしかに青のりが垣間見えるばかうけを取り出し包装を剥がして口に運んだ。ばりぼり。このとき食べたばかうけの味を二度と忘れられないと思う。それでもやっぱりハッピーターンの方がおいしい気もしたが、最近のハッピーターンは少し甘くなった。僕はハッピーターンにステラおばさんの俤を求めていなかった。むしろばかうけは僕が求めるべきものをたしかに持っていたのかもしれなかった。僕はなんだか先輩のことが少しずつ好きになり始めていた。でもそれは彼への恋心とは別枠のものだった。たとえばハーゲンダッツとガリガリくんは競合しえないように。僕はハーゲンダッツの抹茶味が好きで、ガリガリくんは普通の無印が好きだ。今は昔、ガリガリくんはナポリタン味を出したことがある。僕の父は食事を残すことに非常に厳格で、出されたもの、買ったものはすべて何であろうと食すことを生来旨としていた。茶碗に米粒一つ残すことをひどく嫌っていたそんな父でさえガリガリくんナポリタン味は食い切れなかった。すぐに生産中止になったと聞いて僕は小学生なりに安堵の何たるかを解したような気がした。それでも時折ガリガリくんナポリタン味をたまに思い出すことがある。もうできる限り思い出さないようにしているし、記憶はどんどんと薄れ去っているようだから良いのだが、それでもやはりあのナポリタン味と書かれた包装を思い出すと僕は吐きそうになる。それにしてもばかうけは意外においしい。今度もし駄菓子を買うことがあったら、堅あげポテトが見当たらないときに限ってばかうけでも買ってやろうかとふと思っていた。
「お待たせ」
 ツルツルの肌に少しボサボサの髪、そして化粧をしているときよりも可愛いすっぴんで、ベージュ色の寝巻きを纏い、熱気を伴って先輩は現れた。冷蔵庫から緑茶とコップ二つを取り出し僕と対面に座った。先輩は足を組んで片手で器用にコップに緑茶を無造作に注ぎ、僕の方へその一方を渡してくれた。
「ばかうけ、好きなんですか?」
「ああうん、美味しいでしょ」
「美味しいですねこれ」
「私ハッピーターン嫌いだからね」
「ああ。そうなんですか」
「柿の種も嫌い」
「それは、めちゃめちゃわかります」
「誰でもわかるよ」
「おつまみで食べるっていうのよくわかりませんよね、そもそも僕はおつまみっていうのよくわからないんですけど」
「ワインとチーズが合う、とかも?」
「ああそれはわかります」
「ああ要はおじさんたちがいう肴がわからないんでしょ」
「とくにビールに合うという概念がよくわかりません」
「まあ日本酒もそうだと思うけど、それは私にもわからない」
「自分のアルコールキャパは?」
「私には無限の可能性があるからね」
「無限なんですか?」
「基礎論何も分からないから許してよ」
「僕も知りませんよ」
「じゃあいいだろ」
「可愛いですね」
「何も出ないよ」
「そういうセリフは出ますよね」
「追い出すぞ」
「すみません」
「……明日学校だったっけ」
「ああ……そうですね」
「制服は?」
「持ってきてるわけがないです」
「親御さんにはどうするつもりなの?」
「昨日から三日間法事で本州にさえいませんよ」
「付いていかなくてよかったの?」
「来週から中間試験ありますから」
「ええ?」
「はい」
「言ってくれれば飲みになんて誘わないよ、先輩だからって強制力を持ってしまうのはわかるけ……」
「いや先輩と一緒に食事したかったんです」
「……そうか。じゃあ明日結局どうするの?」
「サボるしかないです」
「そうだね……本当に申し訳ない」
 僕は先輩が謝るたびに全く見当違いであることを指摘したくてたまらなかった。でも僕は相手が見当違いなことをするのを見るのは好きだった。すべての言説の真偽はその話し手と聞き手に依存していて、僕が見当違いだと指摘することはその意味で適切ではなかった。でも見当違いなのはむしろ僕の格好と、それで会話がとんとん拍子に進むこの雰囲気だった。僕は「女物のパンツ」ということだけに気押されていたけど、よく考えればもう泊まることが決まったのなら女物か否かが問題になるのはパンツだけで残りはただのパジャマに過ぎなかった。僕はオレンジ色のバスタオルのまま先輩に改めて頼み、はみ出てしまいそうな黒パンツを穿き紫色のパジャマを着た。僕はいったい何のマダムになっているのかわからなかった。どんな悪趣味な人間でさえもっと明るめの紫を選ぶはずだったが、袖から先輩の匂いがするのに気づくと僕はすべてを受け入れることができた。
 先輩の部屋にはベッドが一つあった。もともと床で寝るつもりだったからどうでもよかったのだが、まあ後輩を床に寝させて自分はベッドで悠々と寝て平然なタチではないこともわかっていた。当たり前だが僕は先輩と同じベッドで寝たかった。
「僕は床で寝ます」
「いや君がベッドで寝てくれ」
「そんなことできるわけありませんよ」
「私はよく床で寝るからむしろ落ち着く」
「じゃあなんで今ベッドに入る気満々だったんですか」
「いやそんなことはない」
「そんなことありますよ」
「……うちは布団もソファもないんだ……」
「布団ないんですか……」
「いつか買おうとは思ってる」
「……一緒に寝ましょう」
「……そうするほかないね」
 こういうときには「しませんか?」や「どうですか?」は禁句だとわかっていた。責任はこちらにのみあるべきで、年上の女性であろうとすればするほどこの提案を妨げることはできなかった。とはいえど背中を向け合うことも顔を向き合うことも禁止されているような気がしたから、二人揃ってアホのように天井を見つめていた。
「先輩」
「うん」
「肉じゃがって作りますか?」
「作らないけど好きだよ」
「普通はご飯と食べますよね」
「そうだな」
「小学生のとき同級生が食パンと一緒に食べてたんです」
「そうか。まあ多様性というのは種の保存において重要な役割を果たすよな。そういう外れ値を受け入れられる懐の深い社会というのは、持続可能な経済活動の保持という観点からは大切だ」
「でもミラノ風ドリアを混ぜる人間を受け入れる必要はないと思います」
「カレーライスの方が受け入れられないな」
「カレーライスを食べる前にスプーンを飲み水のコップにひたす方が嫌いです」
「それは殺人をしてはいけないように当たり前だ」
「シチューをごはんにかけて出すのは?」
「まだ情状酌量の余地がある」
「へえ」
「君はシチューとごはんは合わないと思う?」
「思いません」
「よかった」
「ラーメンとごはんは?」
「まさかたとえばライスおかわり自由のラーメン屋に行った末に、ライスをラーメンにブチ込まずに、それぞれ別々に食べる人間がいるのか?」
「いますよ」
「正気の沙汰じゃない、今すぐ精神科の受診を勧める」
「なんて病名がつくんですか」
「統合失調症」
「上手いこと言ったつもりですか」
「ごめん」
「ゲロをぶち撒けたから謝るんですか?」
「その件についてはもうありがとうと言うほかないような気がする」
「……ストレートに感謝されるとなかなか困るんですよね」
「話を元に戻すが、ラーメンにライスを投入しないやつがいるのか?」
「炭水化物の徹底的暴力、らしいです」
「待て、ラーメン屋などという公開炭水化物乱痴気騒ぎ場に来といて『炭水化物の徹底的暴力』じゃあ、まるでソープランドに行っておきながら『自分は他の性欲お化けとは違うんだ』と清潔ぶって六十分会話し続けるクソ童貞と何ら変わりはないじゃないか」
「ライスを汁につけた瞬間、ライスの主張は完全に汁へと同化し、この世から未来永劫消え失せてしまう、らしいです」
「いいか、豚骨スープにひたされたライスというのはな、米のアウフヘーベンなんだ。弁証法を言論封殺とは決して言わないように、そこにはある種の昇華があるんだ」
「豚骨好きなんですか?」
「大好きだ」
「僕も先輩大好きですよ」
「殺すぞ」
「すみません」
「からかわれるタイプじゃないからね」
「からかってませんよ」
 僕たちの間にはしばらく気まずい沈黙が流れてしまった。こういうムードになると「あぁまたやってしまった……」と心の奥底からつらい気持ちがふつふつと湧き上がってくるのだが、それでもふと彼女の顔を見やると別に嫌な顔をしていないようだった。勇気を出すのはまさに今だった。僕は彼女にそっとキスをし、一瞬は抵抗しようとした彼女がゆるやかに受け入れていくのを感じた。とろっとした彼女の瞳と目を合わせると、そこに言葉はいらなかった。
 起きると、そこは知らない天井だった。窓からは小鳥の囀が聞こえ、日差しがやけに強かった。もう九時ぐらいだろうか。それにしても同級生は今頃律儀に制服を着て電車に乗り学校に通って授業を受けているのに、僕は今起きて隣にまだ寝ている女性と一緒にベッドにいるのかと思うと、腹の底から愉快でたまらなかった。中身の入ったのが五個ほどゴミ箱に捨ててあるのが見え、未使用のが十個ほど近くにあるのを理解した。足りなくなったことはなかったようで安心したが、念のために爪が伸びていないことを確認した上で指を突っ込んだ。特段変な感じがしないことには安堵した。安堵できなかったのは、それで彼女が起きたことだった。
 結局僕たちがベッドから出たのは昼の三時だった。
「先輩」
「……なに?」
「昼下がりのジョージ」
「ぶち殺すぞ」

 僕の学校は創立して148年が経っていた。卒業するときは149年目で惜しいね、とよく言われるが僕としてはどうでもよかった。大事なのは毎年の恒例行事であり校風の大黒柱として伝統となった「躍進会」だった。躍進会は紆余曲折を経ながらもおおよそ次のような状態に落ち着いた行事である。まず一学年八組あり、単なる授業をうける共同体としてはアラビア数字なのだが、こと躍進会の組分けとしてはアルファベットに「組」という構成単位をつけて呼ぶこととなっている。各組は下級生を指導するために五つのグループに分かれ、その場合はギリシア文字を用いる。たとえば中一を指導するなら「α係」であり、その指導者なら「α正」、その右腕なら「α副」と呼ぶわけである。組を指導するのが「長」であり、事務作業ないしは教員との調整を代表するのが「責」である。それぞれ組のアルファベットを接頭辞にするのが通例であり、たとえば僕のいる八組の長は「H長」、責は「H責」であり、α正は「Hα正」としてもしなくてもよいわけである。要は文脈による。そういった役職を決めるのが選挙管理委員会であり、僕はその長であった。選挙管理委員会は内部の組織なので対外的に区別する必要がないため特にアルファベットの接頭辞を必要としない。強いて言えば選管、そして選管長と略される程度のことだ。
 僕は彼と同じクラスで配属志望は同じα係だった。僕はこのときほど運命の偶然に感謝したことがなかった。僕はHα正に立候補し、学年のα正の候補の人間とどんどん交流を持っていた。「対立候補が嫌われてはいるけどとても有能で困っているんだ……とにかく通りたいんだけどどうしたらいいかな」などと僕に相談してくる候補さえいたほど僕は当選することが確実だった。立候補締切期日の当日まで誰も立候補してこないから、僕はとことん安堵していた。彼や、僕の四年来の親友ら数人と理想のα係をつくり、ついには指導までできるのかと思うとここまで生きてきたご褒美を少し実感していた。僕は中一のときE組だったのだが、あのEα正は今でもよく覚えている。α正とはそういう役職であり、そうなれば僕は躍進会での感動の再生産の一部品として動くことになるわけだったが、それ自体が悪いとは思えなかった。
 すべてが変わり果てたのは「立候補できますか?」と連絡が来たあの夜からだった。僕はあまりその人とは面識がなかったものの、まさか通ることはないだろうと思っていた。「できます」「じゃあします」…… 僕は翌日に僕とその人がHα正の候補であることを掲示した。自組というよりかは他組の方がこの件についての噂でもちきりだった。みな僕が当確だろうと騒ぎ立て、僕もその通りであろうと少しその人には申し訳なささえ感じながら思い込んでいた。
 結果は違った。僕はとてもではないがその事実を受け入れられなかった。その前に行っていたHγ正選で落ちた副が僕の肩を即座に持ち、「大丈夫だよ」「よく頑張った」だのなんだのと言ってくれたような気がする。もう僕にはあのときのことは何も思い出せなくなったが、今でも副選管長の口からその人の名字が発声されたときの非現実感そして〈永遠〉に取り戻せないということの冷酷さを肝から理解した。教室はすべてが動的な歪みをもって現前していて、とても正気は保てなかった。「なんで落ちたんだろう」という顔をした彼と僕の親友らを見るのは慰めにはなったが、他の人間は僕に腹の底で「死ね」と言い続けているようでどうしようもなかった。授業はもう全く受けられるようではなかった。他組の人間が「お前、どうした!」と言わんばかりに駆けつけてくるたびに、すべてが消えてくれればいいのにと思い続けていた。
 放課後、僕はα係志望の親友にラーメン屋に誘われた。家系ラーメン屋は概してライスがおかわり自由なのだが、その日限りはどうにも彼女の非難するところにならざるをえなかった。
「本当につらいよな」
「ああ」
「一緒にα係がつくれて、晴れてあのときのEα正に報告できるかなって」
「……」
「……お前の演説もハナから聞かずに漫画読んでるやつもいたんだ。この前の副長で当確と言われて落とされたあいつだよ。それで候補が変わった瞬間に嬉々として聴き始めて。何か雰囲気がおかしかったんだ」
「……そうか」
「俺は間違いなくお前に入れた、信じてくれ」
 次の日は欠席した。

 高一の僕はH組として優勝した。優勝するのはそう簡単ではない。六年間在学してもすべて第一試合敗退となる人間は腐る程いる。そんな中で優勝すれば決して陳腐な仲良しごっこでは得られない戦友へとなるのだ。高二のH組でもやはり「H組あがり」で秘密のグループが自然と結成された。結局こうして選挙で不正をせずに済んだわけだが、必要とあればA組のように票を改竄することなど当に覚悟していた。選挙の公平性というのを大して気にしたことがなかったし、衆愚政治よりは哲人政治の方が相応しいと思っていた。結果が過程を正当化するのだと信じていた。
 要するに僕はその中で最初の落伍者に成り果てたわけだった。もう撤退したいと取り乱すと、正となった人間からはみな「落ち着け」、なりそうな人間からは「気持ちはわかるけど負けたからといって」の一辺倒だった。いっそのこと世界が何回か Ctrl + Z を押してさえくれれば良かった。それでも僕たちは一方通行に生き続けるしかない。過去を取り戻すことなどできないし、僕はギャツビーの二の舞にならないよう常に気を払っていた。
 しばらくして僕はH組にどことしれぬ恨みを持つようになった。絶対に通らないのに立候補しようとする人間を説得してほぼ高圧的に下ろさせることもあった。それはある意味予定調和にしたかったからとも言えるが、むしろあの「投票で落とされる」という痛みをこれ以上誰にも味わせたくなかったからかもしれなかった。何より、四年間変わらず僕の太陽であり続けた彼とついに五年目にして同じクラスに返り咲いたと安堵するやいなや、次第に言葉遣いや立ち振舞いが日に日に変わっていくのを感じるようになった。僕にはなぜ天がここまで残酷な仕打ちをできるのか全くわからなかった。
 まるで埋め合わせをするかのように、夏休みに同じ8組の人間に恋をし、僕は結局ボロボロになったまま十七歳の誕生日を迎えた。十七年も生き存えていたことがどうにも屈辱で、ただ遣瀬なかった。
 大学の学園祭を見に行ったのはその一週間ほど後だった。

「そういえば躍進会の準備とかしてんの?」
「まだそんな始まらないんですけど、ミーティングとかは少しずつ」
「何係?」
「αです」
「おー、なんかあのいっぱいアルファベットつけたりしないの?」
「Hα副です」
「なるほどね」
 ラブホテルで彼女が全裸でタバコを吸いながら話すさまに僕は魅入っていた。貧乳と言う向きもあろうが、僕にとってはスレンダーな体つきには強く心が惹かれた。
「単位、足りてるの?」
「ちゃんと出てますよ」
「本当にちゃんと計算してんの? 私はそりゃ君と朝から何時間もするのは気持ちいいけど、さすがに高校中退はダメでしょ」
「結構考えてやってます。日本史の出席がちょっとヤバいのはわかってるけど、それは火曜と土曜なんです」
「成績は?」
「全部余裕」
「……君は絶対大学一年目で留年だね」
「じゃあ先輩と遊べるモラトリアムが一年増えるってことですか?」
「そろそろ私のこと気遣ってくれる?」
「気は遣わないでいいから、って」
「はぁ……」
「もう一回しませんか」
 僕らはこうして放蕩の日々を楽しむようになった。僕にとっては逃避行であったが、彼女としても大学院生として生活し続けるのはストレスであったし、やっぱりOLでもないから良い女はそう簡単に見つからないらしいのだった。彼女は僕のことをセックスマシーンだの種馬だのと笑いながら言いはするけど、いざベッドの上の彼女は僕が上手だから沼にはまっているだけとしか思えなかった。都合さえ許せば街へと繰り出し、美味しそうなレストランや居酒屋で散々酒や肉を食べ尽くし、あるいはラブホテルやネットカフェで(彼女の家は少しリスクが高すぎた)貪りあうことにしていた。そのいずれにおいても僕には一銭も出させようとしないところは本当に見栄っ張りだと思ったが、そこが彼女の可愛いところでもあった。
 彼女は白ワインが好きだったが、僕は白ワインはあまり好きになれなかった。彼女と一緒に白ワインの美味しさを共有できるようになれればと思って何回か試してはみるものの、やはり僕が居酒屋の安い酒を飲むとしたらそれはカルーアミルクとカシスオレンジ、あるいはウイスキーのコーラ割りしかなかった。前二つは確かに初心者向けではあったが飲むたびに新たな一面を発見できるようだった。ウイスキーのコーラ割りに僕は「アメリカ」を感じるのだが、実用上はウイスキーとミルクアイスを混ぜるのが一番いいのかもしれない。夏休みに過ごしたあいつは「チョコアイスじゃん」と言ってくれたが、スーパーカップを見るとたまに思い出すようになった。あいつは僕を散々にしたあと、「なんかアルコール無理になった」と脈略もなく言ってきた。「じゃあ生涯で酒を飲んだ相手は俺一人だけなの」とおどけて返すと「草」と返したきりだった。僕は紆余曲折あって彼のことが嫌いになった。もちろんいろいろいざこざはあったのだが、やっぱり裏で「落選確実とあれだけ言われてたのに『俺はそれでも出る』と言って勝ち上がったのは最高にカッコ良かった」と聞こえるように言われたことを無意識に根に持っていたのかもしれなかった。彼も僕が嫌いだった。

 学校に行くたびに8組が嫌いになった。それは席替えがH責を中心に執り行われたからだった。いや、H責に責任があるわけではなかった。むしろ「係同士の親交を深めよう!」などと美辞麗句を並び立て係ごとにまとまった席配置を要請した一部正らのせいだった。他の正とそのメンバーらは反対ないしは消極派であったのに、躍進会のためついに僕は天の計らいによって最前列の席となった。僕はほとんどの教員に煙たがられ、日本史の教員に至っては僕が授業を全然聞かずにいたのに中間試験で96点をとったことにひどく腹を立て、試験返却時に一時間丸々使って全クラスで僕の悪口を言いたてていた。熱心な教員で有名だったから、きっと「これだけ薫陶を与えれば改心して俺の授業も聞いてくれるんだろ? 知ってるぜ秀才くん」という魂胆があったのだろう。すべて見え見えだった。薄汚さをファンデーションであれほどまでに上手く隠し通す大人は見たことがなかった。いくつかの教員はそのことを耳にし、時あるごとに僕に対して当て擦りをしてくるのもどうにも耐えられなかった。地理の教員が一言「最近大丈夫か?」と社交辞令であろうと声をかけてくれたことと、古文の先生が僕の机にある本を見て「お前、プルーストを原書で読んでるのか」と性に合わず褒めてくれたことしか、僕の秋は学校にいい思い出がなかった。僕はすべてが嫌になって、一度一週間ほど学校を休んで彼女と一緒に過ごすことにした。僕にとって高二の秋は自殺しか頭になかった。それでも生きていたのはどこかで輪廻転生を信じていたからかもしれない。理屈でナンセンスだと思ったところで心のどこかできっと輪廻転生が僕に染み付いていたに違いなかった。
 親友は僕よりもこのクラスに耐えられないようだった。H組を脱退したい、隣のG組に移籍したいとしきりに言い続けた結果、学校にいるすべての時間はG組に行くか、その廊下にしか居場所がなかった。親友やG組の何人かは、のちに僕も加わって「廊下界隈」の名を恣にしていた。それでもG組の連中は単純に学校という制度自体に疲れていたからだけのようだった。H組出の人間はH組が単純に嫌いだったのだ。僕にとってはもはやHα正に負けたことなどどうでもよかった。毎日単位を取るために出席するとどこかしら不穏な空気が局所的に流れていた。親友が疎外され囃し立てられ続けるのを見るのはつらかった。
 A組が羨ましかった。Aα係はメンバー内でも交流が深く、伝統的に上の代からの引き継ぎが豊富だったから運営も円滑に行われていた。Hα係もミーティングの真似事はしてみたものの、議事録係をジャン負けで決めるときに親友が彼と一騎討ちで負けた。至上の疎外を喰らった親友は屈辱に耐えられず堂々と退場してしまった。騒ぎを聞き付けた数人の野次馬がやってきて、事情を聞くと「やってんなぁ」と腹の底から笑っていた。僕もきっとこういう風に嘲笑われているのかと思うと、ますます学校は僕にとって地獄の形相を為し始めていた。しばらくして親友が帰ってきて、α係はみなお前のことを受け入れているというと、いくらH組が嫌いでもα係には希望を見出したようだった。

 僕は彼女を感じながら耳元で「好きだよ」と囁かれることに虜になった。普段の彼女は絶対に言ってくれないのだからお互いを貪りあっているときにしかチャンスはありえなかった。彼女も満更でもない様子だったし、第一これは特殊なプレイではないと思う。第二に僕は最初からずっと言い続けているのに彼女はその度に噴き出すような笑いを向けているだけだった。女日照りなのはそういう態度だからじゃないかとしばしば思っていたが、ただ彼女のことが好きだったのだからそれも長所の一つだと理解するようになった。僕にH組は一切理解できなかったが、彼女の匂い、眼、肌、唇、それと彼女の弱い所は理解も暗記も早かった。どれもいつでも鮮明にありありと思い出せるのは結局僕の頭には彼女しかいなかったからだった。
 とりわけ、彼女とのキスには頗る興奮した。とくに彼女が上に跨って口づけし舌を入れられることには耐えられなかった。行為自体は僕にとって単なる相互伝達ないしはスポーツの一形態であったが、キスだけにはどうにも弱かった。少女漫画に出てくるキスは生々しさを捨象することで完全な美化に成功しているが、現実のキスは当然互いに口の中を味わい、ときには嗅がなければならない。人間には自動で口内を浄化する機能が十分についていないのだからこそ、映画やドラマのキスシーンの直前にガムやミントを使うのではないか。それでも僕には彼女との生々しいキスが堪らなく愛おしかった。目を閉じるのも合わせるのもどちらにも確かな趣があった。

 彼女のおかげで僕はクリスマスを迎えることができた。二人きりで朝っぱらから上野の街を出歩くのは気分が良かった。店のほとんどがまだ準備中のプレートを出し、肌寒い、コンクリート製の建造物に囲まれた人工街。彼女は相も変わらず服のセンスに抜群であるのに、僕はあまりにもファッションに疎かった。あの日着ていたコートは一体どういう区分で何と分類されるコートなのか必死に調べてみたが、どれも重要な何かを欠落していて同じには見えなかった。
「上野ちゃんと歩くの初めてなんですよね」
「そうなの? まあ博物館と美術館ぐらいしかないか」
「僕は絵画がわからないし、博物館も美術館も厭なんです」
「なんで?」
「さあ、なんとなく」
「いや私も大して好きではないけど、じゃあアメ横とか通ったことは?」
「一度だけ」
「ふうん」
 彼女が車道の側を先立って闊歩する姿はあまりに美しすぎた。普段はスニーカーかブーツなのに今日だけは紳士向けのロングノーズの革靴を履いていた。彼女がヒールを好まないのは知っていたが、だからといって先の尖った真っ黒の革靴を履くものだろうか。その姿は上野の空気にただ一つの特異点として場を歪ませていて、僕は彼女の時空間から取り残されたままその幻影を追い続けているような気がした。それでも幻影ではなかったことは、ふと手を差し出すと握り返してくれたことが証明してくれた。彼女は照れ臭そうに僕から顔を背けていたが、その長い指を握り締めて歩けるだけでもう十分だった。
「革靴、綺麗ですね」
「ありがとう」
「僕は革靴履いたことないんですよ」
「持ってないのか」
「はい」
「買いに行くか」
「僕今日そんなに持ち合わせてませんよ」
「初めてなら安いので構わないだろう、ユニクロにでも行こう」
「すみません」
「そういうときはありがとうございますだよ」
「ありがとうございます」
「どうも」
 僕らは取り留めのない会話をしながら御徒町まで歩いてユニクロとGUが一体になった大きな建物に入った。大勢の人が服を買い求めてその巨大な塔を登り詰めていた。一緒に何階かエスカレーターで上がって彼女を真似て先の尖った黒の革靴を買ってもらった。僕はなんだか得意になって、履いていたボロボロのオレンジ色のスニーカーを捨てて慣れない人工革の感触に慣れようと努めた。近くの喫茶店で少し小腹を満たしはしたが、僕は全くあのコーヒーの味を覚えておらず、ただ彼女の仕草にしか興味がなかった。彼女は水を飲むときに黒色の袖を捲って目をやけに開いて遠くを見つめながらコップを手にする癖があった。食べるのも早くて、僕が食べるのを頬杖をつきながらジッと見つめてくると、僕はいっぺんに死にそうになった。別に僕の食事が不調法だとは思ったことはなく、ただ彼女の視線が本当に物理的実体を持っているようだったというだけだった。食事を終えると、適当に歩いて見つけたホテルに入らざるをえなかった。僕は初めてクリスマスが好きになれた気がした。

 新年は陰鬱だった。一週間後にα係で集まって過去問を配布するとのことだった。過去問は各リーダーにしか与えられておらず、USBやCDで各メンバーに共有するのが躍進委の取り決めであった。どうにもその利点がわからなかったが、そうしないと競争が激化しすぎるという通説で満足していた。ぶつぶつ思いながら朝から空いた電車に揺られて学校まで向かった。せっかく期末試験を乗り越えて解放されたのも束の間、僕はまた現実に向き合わないといけなかった。
 教室を開けると誰もいなかった。そもそも(あの)僕が定刻に間に合うということが実に稀ではあって、一番乗りというのは愉悦極まりなかった。ぼちぼちと数人のメンバーが集まってきたが、彼とその他一部は来なかった。彼はどうやら都合が合わず、その他一部はそもそも音信不通のようであった。当然の帰結として会は実に締まりのないもので、僕はもうα係に熱意を抱いていなかったから取りまとめようという気も起きなかった。クラス委員の僕は、親友と一緒に新しい席をどうするかゲラゲラ笑いながら話し合い、あとはいくつかの雑用をこなして僕は満足した。なんだかよくわからないままお開きとなり、なんだか馬鹿馬鹿しくて面白かった。何人かに近くのラーメン屋で昼食を取ろうと言われ、久しぶりに魚介系の豚骨スープを味わうことにした。
「お前今日のどう思う?」
「どうって、別に」
「いやヤバいだろ」
「? 何とかなってると思うけど」
「冷静に考えてみろよ、他の組はほとんどもう過去問研究なんぞとうに進めまくってるんだ。たしかに傾向が大きく変わった二年前以上はやる意味はないから年数マウントを取るわけではないが、いくらなんでも秋あたりから研究しよう研究しようと言いこそすれど結局定期ミーティングもほぼ消えたのには唖然とせざるをえなくないか。大体、本番だって一次試験、二次試験、三次試験とあって、さらには模擬試験さえあるんだから直近一年分やるだけでも大仕事だ」
「過去問がすべてではないから」
「そうだが……」
「不安なの? じゃあお前どっちに入れたの?」
「……いや、お前には入れなかったけど……すまん」
 謝られて何も言えなくなった。何で “今” 謝るのか理解できなかった。
「とにかく、俺は今日来なかった連中も気に食わないんだ。都合が合わないと連絡するのはまだしも “音信不通” ってなんだよ、それ」
「起きてなかっただけだろ」
「……それでもダメだろ」
「俺は別にあいつがリーダーに適任だと思うからどうしようもないし、俺はもう大してやる気ねえよ」
「こっちだってこのメンバーとやっていくのは不安すぎてしょうがねえんだ」
「じゃあ係で席をまとめたほうが良かったか?」
「いや、早く今日の案は通してほしい。結局言い出しっぺのリーダーも翌日には間違ってただなんて反省してたじゃないか」
「くだらねえな」
「……冷めるから早く食え」
 僕はにんにくを入れてさっさと食べた。この店ではライスは有料だった。

 結局その胸騒ぎはあまり問題にならなかった。三学期の始業式はまたいつも通り始まり、火金土にはちゃんと出席しないと単位が危ないということを担任が伝えてくれた。僕が唯一天から慈悲を恵んでもらったのはこのH組の担任だけだった。みなH担のことを気持ち悪がっていたが、それは外見に惑わされているだけのように思えた。でもそれはある意味で宿命なのかもしれなかった。すべての人から好かれるような感じの良い人間は、結局のところ最後の最後では隠していたあるいは無自覚にいた自らのドス黒い部分を最も色濃く滲ませるものだった。唯一H担だけがその例外であった。僕はどうやら彼女とH担のおかげでまた動き出せるような気がしていた。α係としては、まあ適当に誤魔化せれば最後は感動ポルノでうやむやに水に流れるはずだから少し楽観視もできた。きっとなんとかなる、とはある意味で不変の真理であった。たしかに躍進会の準備はまったく無意味だという結論に到達したが、同時に退屈さに耐える訓練期間として捉えることに決めたわけでもあった。
 彼女は最近研究が立て込んでいるようでなかなか都合が合わなかった。大学院生はとかく精神を病みやすいと聞くから僕はわりあい気を焼いていたのだが、自分はすでに十分すぎるほど元気を貰っていた。あと半年すれば全てから解放されて自由になるのだと思えば、長い人生の中ではまあ許容できる程度の苦痛かと思っていた。

 こうして一月の下旬を過ぎようとしていると、どうやら今までとは少し違う不穏な空気が流れているのに気付いた。α係が空中分解しているという噂が流れ始めていた。僕の演説が終わるや否や「不可能だ!」「アホか!」などと言い散らかしていたらしい人間も、みな揃って「おいおいHα正もα係も大丈夫なのかよ」と煽り立てる様にただただ呆然としていた。彼らにとって躍進会はただのゴシップとしての消費対象だったのだろうか。何人かに至っては「お前を選ばなくて申し訳なかった」などと直接宣い許しを乞うようにさえなり、僕はいったい愉快とも不愉快ともつかない気持ちに囚われた。自制を求めたH組あがりでさえ僕のことを擁護し慰め始めていた。それはとても複雑で、なおさら僕にとって学校は生き地獄になり続けていた。
 ついにはその人の極秘の弾劾裁判に立ち会うことになった。僕は出席していなかったが、第三日曜日の組作業がその話で持ちきりになってしまっていたからだった。だいぶん前の僕と彼のやり取りの不適切な箇所がバレてしまったことも余計に不味かった。僕の預かりしれぬところで勝手に話は進んでいた。ここまで放っておいた僕にも責任は当然あったが、その人は組の出し物の締切を一週間ほど遅れていたのを教室内で担当者が公開処刑かのようにこっ酷く叱責していたのは余計分が悪かった。誰も僕らα係のメンバーを責めるものはいなかったのが余計事情を複雑にし続けていた。
 たしかに今からリーダーの座につけるという誘惑は魅力的ではあった。揺らいだ、と言われても反論の余地がなかった。一度はその人に「辞めてくれ」と言ってしまったのだから。あの今にも決壊しそうな震える顔、日がとうに沈んで真っ暗になった空、凍えて歯が鳴るような空気、どれもありありと僕の青春の大きな一ページになって離れなくなってしまった。僕もこうして〈永遠〉に一度人を殺させようとした存在に成り下がってしまった。幸いだったのは、すぐにその人は正しく弁解を始めて僕らが途端に納得するところとなったことだった。折衷案として僕は名目上は副だが実質上は正として動くことになった。それはダブル正体制と呼ばれるようになった。
 翌日α係に緊急召集が掛けられ、翌週にはクラス全体にも、事の顛末を説明することとなった。他組の野次馬もついにはこんな重苦しいことは笑いにさえできないと思ったのか、誰もこのことに触れたがらなかった。はたして躍進会は毎年ここまで辛く苦しいものなのか僕には甚だ疑問だった。これが本当に教育装置の名の下で許される行いなのか僕にはわからなかった。僕にわかることといえば、とにかく前に進むしかないということだった。

 二月になっても彼女は多忙であった。いくら僕がこんな政治力学に気を揉まれているからといって、欲望が完全に掻き消えるわけではなかった。彼女の馥郁とした香りがどんどんと僕の記憶から色褪せていく間に、現実はよりいっそう鼻につくような濃さを増し続けていた。
「大幅に遅れているぶん二月の休みで一気に取り戻さなければならない」
 さようですか。
「しかし躍進会についての打ち合わせを世間の迷惑になるように行なうのは禁止されている以上、休日返上で頑張らなければならない」
 おおかた覚悟はできていたが、気分はどこまでも鬱蒼としていた。いったい、どうして半年前に選挙で叩き落とされた人間が数日前に正に実質上選ばれただけで気力を出せようか。同情や配慮をしてほしいわけではなかった。「どうしようもない」と納得するたびに、憂鬱さが濃くなるだけだった。勝つことがそんなに大事なのかどうにもわからなかった。その熱心なメンバーの声に僕はただ頭が下がるばかりだった。自分が生きている感覚が少しずつ薄れているようだった。
 それはまた同時にそのラーメン屋で捲し立てたメンバーが正に叛逆を表していたからでもあった。α係よりもβ係に移りたいと大声で叫び、どんどんと正は塞ぎ込むようになっていった。彼の目にはゾッとするような深淵が潜む隈が浮かび、授業中に寝る間に周りはひどく冷遇していた。笑いの絶えることがない席であるように思えた。僕は遠い上に他人の世話をするどころではなかったが、寝ている正の机の炭酸をそいつが振り開け溢したのには絶句した。全部夢であってほしかった。本当は僕は借金なりなんなりで精神をおかしくしただけで、今までの十七年間はすべてその本当の僕が生み出した幻想であった。頼むからそうであってほしかった。何が現実で何が非現実なのかもうわからなかった。はたして今こうして踏み締めている地面が本当に存在しているのかさえ疑わしかった。一体どこに向かっているのかわからなかった。それでも僕は判断を留保することによって、無限に引き延ばされた希望を抱くことにした。

 二月最初の休みのミーティング兼結成会に僕は大遅刻をした。理由は、心理学が防衛反応と言うところの効能に他ならなかった。連絡と謝罪をするときの僕は、まるで僕から乖離した何者かのようだった。みんな笑って許してくれるが、あの種の笑いは僕を殺すようだった。この禍々しさは遅刻癖のある人間にしかきっとわかりえないのだろう。早くこの夢が覚めてくれないか願い続けていた。
 二回目は半分も出席していなかった。僕はまた遅刻した。リーダーは酷く陰鬱な顔と赤みがかった眼をして「……お前やる気あんの?」と僕を見やり、残りの何人かは俯いて黙りこくっていた。やる気なんてもうあるわけがなかった。「お前、一月のとき俺のこと何か言ってるやついなかったか?」席につくや否やいきなり度肝を抜かれるような質問に、まさか真実をありのままに言えるわけがなかった。「いいや」と冷静沈着に答えた。「そうか」彼らはどこまでも木像のように神妙な顔をしていたが、どうやら例の叛逆者がついに直接暴言を吐いたようだった。正にとってもはや僕は信頼に足る右腕どころではなくなっていた。これは非常に面倒なことになった。適当にはぐらかし、とにかく仕事を早急に終わらせるしか僕に残された道はなかった。こういうときの僕はそれなりに機転が効くことをよくわかっていた。とにかく話を膨らませて言い包めさえできれば、すべては何とかうまく行くはずだった。きっとこれは誰かのせいではなく、むしろ自分に色々瑕疵があるのはよく了解していた。だから何とかあと半年耐えることこそが僕の至上命題であった。
 三回目は午前中に塾の講習があった。僕は自分が自分でなくなっていくのを日に日に感じていて、結局塾の講習には行けなかった。昼に起きて、塾の講習が延長しただのなんだのと言って、また長い一日を終わらせる必要があった。

 あの日は、太陽が厭に明るく僕を照りかざして、小分けの雲はのっぺりと空を漂っていた。本来僕は急いでバスに乗り込まなければならなかったのに、ふとロータリーの前で呆然と立ち尽くして空を見上げた。少しずつツンとするような肌寒さが無くなっていて、コートでは汗が滲むような微妙な空気だった。僕は雲を見ながら、雲が死んでくれることを願っていた。それでも雲は死なないことを僕はよくわかっていた。雲はたとえ形相を変えようともいつまでも雲として輪廻転生し続ける。たしかに雲はその構成要素として人間にも動物にも植物にもなりうるのかもしれなかったが、H2O 分子だけはいつかはまた雲として空を漂い続ける。僕にはそれがどうにもむかついた。さっさと所定のバスに乗り込んで、無限に思えるかのような道路を超えた上でようやく集合場所にたどり着いた。


 そこから記憶はプツと途切れ、帰りに僕は親友とカフェに入ったところから記憶は再開している。お互いにHα係として生きていくのはもう無理な気がしていた。僕は辞表を出すことにした。
「なあ」
「うん」
「お前は重役だから大変だろうけど、俺はもうお前もあいつもいなかったらダメなんだ」
「あいつとはだいぶ疎遠になったんじゃないのか」
「それでも好きだからね」
「……へえ」
「あいつ、H組に入ってから急に変わったよな」
「……」
 僕は親友の横顔をふと見ると、どこか遠くの方をぼんやりと見つめていた。このときほどタバコを吸ってみたかったときはなかった。結局僕はタバコを吸うことは一度としてなかったが、それでももし「タバコを吸うべきタイミング」があるとすればそれはまさに今だった。
 それ以上彼のことについて話すのを僕は制止した。僕らはお互いによくわかる部分があったから、話題はすぐに別のことに移ることができた。

「辞めようか迷ってるんだけど」
「え、なんで?」
「もうついていけない」
「なんだそれ」
「どこについていけないって思ったの?」
「存在意義がないような気がして」
「仕事やってないわけじゃないでしょ」
「まあ一応——はした」
「じゃあやってんじゃん」
「結局コミュニケーション不足だからもう一回話してみなよ」

 僕は、全く彼にだけは敵わなかった。「辞表を叩きつける」ことで話すこととした。


 もう思い出せないぐらいのいろいろなことがあった結果、僕は元に戻ることとなった。正は落ち着いたようで、僕を気遣ってくれるのがわかった。ただただ自分が惨めで仕方なかった。結局僕は彼の言いつけを守れないままぐちゃぐちゃになっていたままだった。いっそのこと「存在がもとからなかった」ことになるならどれほど楽かと何度も思い倦ねていた。


 二月の下旬になると急にニュース欄が物騒になり出した。New York Times 紙もやけに騒ぎ立て始めるようになり、アメリカはまだ直接のダメージを負っていないものの、イタリアやスペインといった欧州では大惨事を引き起こしていた。ついに二十七日には首相が春休みまでの休校を要請した。翌日は所定の後始末を済ませた。
 ようやく彼女とも連絡がつくようになった。とてもじゃないが研究どころではなくなった。とにかく今後どうなるかわからないが君も気をつけてくれ。ええわかってます、そちらこそお気をつけてください。こんな他愛のない会話でさえ僕にはとにかく愛おしかった。
 こうして与えられた休校期間は僕にとってサバティカルであって、さらには躍進会がもうなくなるのかもしれないと思うと魂から重荷が消えていくような気がしていた。僕はEα係を再現することはできないのかもしれないけど、正直なことをいえば今更どうでもよかった。僕は自由に耽溺するのを愉しんでいた。


 気がつくと目の前には漣が無限に広がっていた。僕は砂浜の堤防の硬いアスファルトに腰掛けていて、横には眼鏡をかけた彼が凜々しく佇み、地平線をその双眸の奥から見通し続けていた。どこまでも海と砂は沈黙を守り、一様性を崩しうるものは何一つとしてなかった。
「大丈夫?」
「……うん」
 彼を真似て地平線を目にしながらそう答えはしたが、どうにも僕には事物の本質を見抜く力がとぼしかった。同じ無限の海や砂を見ているようでも、たとえ物理現象としては視神経に同じように映し出されているのだとしても、きっと内在的に欠落しているものがあるような気がしてならなかった。僕は、全く彼にだけは敵わなかった。
 彼が眼鏡をかけていたのは中学生のうちだけだった。黒縁の眼鏡は彼によく似合っていた。僕は中三のときに彼とキスしたことを思い出していた。昼食後の彼の口は生々しかったけど、時折あのときの感触を思い出して僕は劣情を催していたことを思い起こした。罪悪感を感じながら、この止まった時の中ではどうにも断罪も何もありえないような気がした。
 ふと僕の横にビールが二缶置いてあるのを理解した。その二缶のビールはどうにも「ある時点を境にして現れた」わけでも「ある一定の時間をかけて徐々に現れた」わけでもなさそうだった。僕にはただ「二缶のビールがある」という事実だけを理解するほかなかった。保健の授業でアルコールのパッチテストをしたとき、彼は特段赤いわけでもなかったような記憶があった。
「飲む?」
「いや、いいよ」
 少しはにかんでそう答えた彼の視線は地平線にあったままだった。このまま飲まないのはどうにもばつが悪いように思えて、僕は蓋を手にし、二人だけの静謐な世界に風穴を開けるようにプシュと音を立てた。
 不味いビールを飲み終われば、この世界が永遠に続くと同時に終わらないだろうかと願っていた。ふと今まで燦燦と僕らを照らしていた白い太陽はいつのまにか紅い陽炎となって水面をちらつかせた。彼は残っていたもう一缶を手にして海辺へ投げ捨てた。缶は自ら砂浜へと消え失せ、いつもの猪口才なしたり顔でそのさまを見届けていた。僕も躍起になって残りを全部飲み干し、砂浜に力の限り投げてみた。屹然と缶はそこに在り続け、僕を嘲笑うように一様性を崩していた。
「下手だな」
 顔を綻ばせて振り向いたあの顔、もう数年来見せてくれなかった、夢寐にも忘れられないあの表情を境に世界はついに断絶してしまった。


 僕は布団の上にいて、枕元の時計は五月を知らせていた。
「躍進会は中止らしい」
「ソースは?」
「長責会議」
「へえ」
「絶対秘密だからな」
「もうどうせそうなることはわかってたから」
「まあな」
「全体発表はいつ」
「来週の全体召集でオンライン発表らしい」
「ふん」
 思えば今まではHRだったのに急に「召集」と戦時下のような言葉を使い出したのはおかしな話だった。下手だなと思いはしたが、僕にとってとにかく中止は安堵でしかなかった。
「躍進会は、中止です。」
 翌週その言葉を改めて聞いて、心の奥底から歓喜の歌が湧き上がるのを実感した。
「私たちも誠に遺憾ですが……一番大きいのは、躍進会で人が倒れた際にかけつける医者がみな軍医として動員されたことで……」
 僕には医者がいない程度のことで躍進会が中止になったことが愉悦たまらなかった。周りが泣き崩れる様を見て僕は心の底から笑い喜んでいた。生きている実感があった。僕は生きていた。正や彼がどうなったのかなんてもう本当にわからなくなった。僕には関係のない話だった。

 それでも僕のまた別の親友は強く悲しがっていた。「躍進会優勝」がもう永遠に達成できないこともそうであったが、僕が雑談として物理や生物は一度わかれば一気に力がつくが学校の授業は全く厳しいものだという話をしていたときだった。
「俺は理Ⅲを受けたかった」
「うん」
「お前の言う通り、学校の物理や生物の授業が非本質的だったから苦手だったのかと思うと、『物理が克服できないから』と理系をやめて文系にしたことが、俺にはどうしても悔しくて……」
 彼は急に語気を強めて黙った。「現役理Ⅲ合格」は彼にはもう永遠に達成できないのだ。どれだけ何をしても、たとえタイムスリップしたとしても、「この世界で」永遠に達成できないことがあったということは彼が生きる限り残り続ける。それは、可能性が一厘でも残されている理系選択の僕は聞くに耐えない事実だった。
「だから、理Ⅲに受かるやつには俺より賢くあってほしい。白痴が理Ⅲに通って、ついには勲章としてさえ語り出すのが、どうにも耐えられない」

 そのうちに彼女と連絡が取れなくなった。いくら送っても既読になることはなく、電話をかけてもいつまでも応答することはなかった。現代の日本において電話番号を一瞬にして変えることは相当に困難であるはずで、特殊な事情がない限りブロックされているのだろうと理解した。僕の人生は常にこういう事象の連続で構成されていて、もう十七年もやっているのだから受容することには大して困難はなかった。
 それでも数学科の先輩が「惜しかった」などとつぶやいていたのを見るのは堪え難かった。いっそのことこの世界でどこか屹立しつづけてさえいてくれれば僕のことをいくら拒絶してくれようと構わなかった。彼女がたとえば交通事故や、あるいは自殺で、ふいと消えてしまったなどと考えることを絶対に許さなかった。どこかで生き続けているという信仰を棄却することは誰にもできないし、僕はその悪魔に魂を預かってもらうことにしたかった。一週間後に彼女からメールが来るまでは。


 拝啓

 君にこの文章を送るかどうかとても迷いました。こうやって改めて文を書くのはなんだかこそばゆいですね。

 別に今回の騒動があったからというわけではありません。ただ私にはもう研究ができないからです。君には言ったかどうか忘れてしまいましたが、この二ヶ月はふと素晴らしいアイデアが降ってきてどうにか命を削ってでも書かなければいけない気持ちに駆られていました。君とはクリスマスを最後にして別れてしまいましたね。それはごめんなさい。でも私にも特段の事由があったわけです。

 要は私の研究室のボスが私の論文の価値を徹底的に貶め、バイセクシュアルであることを持ち出して攻撃したということです。どういう経緯だったのかは私の口から書き出したくはありません。

 私は君の前では強気でいましたが、本当は小さい頃から神経が薄弱でした。私の家系はみな三十を超えると狂気に取り憑かれて、ほとんどの場合死んでしまいます。父方の祖父は(現代ではもうないかと思っていましたが)自分の体がすべてガラスで出来ていると認識し発狂した末に車に轢かれて死んでしまいました。祖母はなんとか生きていますがやはりいつ話しても会話が成り立ちません。母方はどちらも元気のようですが、母の従姉妹は高校生のときに腕の動脈を掻っ切って死んだようです。それで、私も最近マズいことになっています。

 君の顔を見るとなぜか言いようのない殺意が湧いてしまいます。本当は君のことを愛しているはずなのになぜか二人で撮った写真を目にするたびに画面を叩き割りたくなるほど殺したくなります。実際もうスマートフォンは壊れてしまいました。だから今落ち着いているうちにこのパソコンでちゃんと遺書として書いておき、期日指定で一週間後にメールを送るよう設定しておきます。

 P.S. このメールを書いた後、私は耐えきれなくなって殺しました。きっと警察はあと一日せずとも私を逮捕すると思います。もし彼らが乗り込んできたらそれは私の死ぬ番です。だからどうか復讐しようとしないでください。もしこのメールを見ることになってしまったとしても、どうか泣かないでください。ガロアは死ぬときに Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans と言いましたが私はガロアと違ってちゃんと決闘に勝てたわけです。

 君だけは純粋なままでいてください。どうか生き続けてください。

 かしこ


 僕にはこれが何かの悪いイタズラには思えなかった。
 つまり彼女は死に、彼とは疎遠になり、躍進会は消えた。

 もしかすると僕はギャツビーを軽蔑しながらギャツビーから逃れることができなかったのかもしれない。失われた彼と彼女との時を求め続けていたいのかもしれない。これからの長い人生はすべて凜とした彼の眼と蕩けた彼女の眼とをあてもなく探し続けるためだけに消費されるのかもしれなかった。あるいは、すべては幻だったのかもしれなかった。

 静かな暁に、このことを思い続けて、自ら心に問うた。世を逃れて彼女と愛し合ったのは心を鍛えて修行するためだった。しかるにお前の振舞いは俗世から垢抜けたように見えて、心はどこまでも世に執着している。寝る相手は女であっても、愛はどこまでも彼に及ばなかった。それは前世の報いなのか、はたまた妄心の為せる業だったのか。僕には何も答えられなかった。ただ僕は生きていくしかない。僕は三回そう呟き、部屋の数学書をすべて燃やした。