空論上の砂、楼閣上の机。

The Castle of Indolence

枕草子の古文解釈:「笑ふをはつかに見入れたれば……」

左衛門の陣(建春門の外側にある衛府の役人の詰所。)のもとに、殿上人(清涼殿の殿上の間に昇ることを許された者。四・五位の者および六位の蔵人。)などあまた立ちて、舎人(近衛府の舎人。宿衛・供奉・雑役にあたる下級官人。左右近衛に各三百人。ここは白馬の行事の警備に来た舎人の弓を取ったりして、殿上人がふざけかかっている様子。)の弓ども取りて馬どもおどろかし笑ふを、はつかに見入れたれば、立蔀(以下、門内の様子。「立蔀」は格子の裏に板を張り、目隠しのため庭に立てる衝立。)などの見ゆるに、主殿司(大宝令制による後宮十二司の一。灯油・薪炭などをつかさどる。ここではそれをする女官。)、女官などの行きちがひたるこそをかしけれ。

これは『枕草子』の第二段の一節です。最初は「白馬の行事の警備に来た舎人の弓を取ったりして、殿上人がふざけかかっている様子」を「見入った」ところ、立蔀などが見えて……という意味なのだろうと思いましたが、やっぱりそれではどうにもおかしくなります。ちなみにインターネット上で見られる現代語訳は(筆者が見た限り)全てこの解釈で訳しています。

まず「見入る」は「外から中を覗く」という語義が中心なのに、外でふざけている殿上人を「覗く」のか? そのあとに確定条件で「立蔀などが見えて主殿司や女官などが行き違っている」と来る? さらに文法的にも不安な解釈である。この読みでは「殿上人などの」として準体法を発動させなければならないはずですが、どこを読んでも準体法の合図が存在しません。

嫌な予感がしたので調べましたら、同格の「の」助詞が表示されない例があるらしいです (小田勝, 2015, p. 343)。

そうすると、この「を」は格助詞ではなく、軽く前後をつなぐ単純接続の接続助詞と取るのが文法的にも意味的にも自然な読みです。訳す際は軽く「…が」と訳しておけばよいでしょう。次のように注がついてあります:

「笑ふを」が「はつかに見入れたれば」の目的語であるとすれば、上記の殿上人と舎人の情景は内部のこととなる。しかし一方「見入れたれば、立蔀などの見ゆるに」と下文に続く文脈であるから、仮に殿上人の情景を眼前に見、また入ることを許されぬ奥の宣陽門の内部をのぞき込んだものと解する。

古文を書くのはツイートを書くのと同じようなものだと最近思っていて、ツイートすればするほど、たしかに接続助詞をこう使いたくなるものだなぁと共感せざるをえなくなっています。こんな「を」の使い方なんて有り得ないだろ、とぶっちゃけ思ってしまいますが、最近は「あ、でもこれあるわ」と考え方を改めています。

参考文献

清少納言. (1997). 「枕草子」(松尾聡, 永井和子, Trans.). 『新編日本古典文学全集』, 18. 小学館. (Original work published 1002).
小田勝. (2015). 『実例詳解 古典文法総覧』. 和泉書院