空論上の砂、楼閣上の机。

The Castle of Indolence

人間賛歌

【注意】過激・不適切な表現があります。文学作品であることを理解した上で読んでください(書かれている内容自体に対する批判等は一切受け付けません)。

 彼女は綺麗な横顔をしていた。明確な輪郭に、包容的な唇、正しい鼻筋、もの静かな眉毛、通過的な瞳、眠たげな二重、きめ細やかな肌、前下がりのボブ。サブカル系のようないやらしさはない。清楚系というのも的外れ。けっして神秘的ではなくとも、美しい顔立ちをしていた。
 彼女は世を捨てていた。しかし自由人ではなかった。人は一人では生きられないし、彼女もまたそうだった。社交的と評されるのが常で、人から嫌われるということもあまりないようだった。ただひとえに、彼女は人を最後の最後では遠ざけているだけだったのだろう。
 それは彼女が自分と同じにおいがするからだった。大阪人が大阪人と数語を交わしただけで判別できるように、彼女もまた自分と同じところがあると思った。でも、こういう予想は信じすぎると痛い目を見る。自分と同じ境遇だと思い込んで、思い込みたくて、相手に拒絶される。そういうことはもうたくさんだ。僕は十七年生きてきて、そんなくだらないことばかり学んできた。でも、納得するのはやはりむずかしい。

 彼女が自分と同じところがあると思ったのは、隣の席になったときだった。僕はジェイムズ・ジョイスが好きだった。机の上にフィネガンズ・ウェイクを置いていた。
 席替えが終わって、どんな席になったのだろうかと見回していると、彼女は落ち着いた声音で僕に話しかけてきた。
「君はジェイムズ・ジョイスを読めるの?」
「知ってるんだ」
「読んだことはないけど、ね。私はヘンリー・ジェイムズを読んでるの」
「おもしろい?」
「微妙かな。ジェイムズ繋がりならジョイスの方がいいのかもね」
「かもね」
「原書で読める人がいるなんて知らなかったわ」
「僕も君が英語に堪能だなんて知らなかったよ」
「あえて言うことでもないから」
「そうだね」
「ねえ、お互い仲良くしましょう」
「改まって言うことでもないと思うよ」
「ふふっ、ごめんなさい。こういうときなんて言えばいいかわからないの」
「僕も。とにかくよろしく」
 でもその奥にはお互いに壁があったように思えて、それは、こうして共通点がある人をいくら見つけて話したところで、大事なところでは大きく違っていて、結局自分が勝手に期待して、勝手に裏切られたような気持ちになって、また自分に失望して、自分が嫌いになって、表面上のコミュニケーションしかとらないようにして、必死に自分を傷つけないように、これ以上、嫌いな自分に起因して、さらに自分のことを嫌いにならないように、臭いものに蓋をしつづけて、ただただ道化を演じ続けるのが正しいんだって何度も言い聞かせて、それでも幾分がすればそんな教訓も薄れて、十分薄れたときにまた最悪な気分になって、こんなこともう二度とやりたくないって絶望するのが嫌だけど、こんな最低最悪な人生の中でも、今度こそは、分かり合える人がいるのかもしれないって、いやでもそんなはずはないんだ、また裏切られるんだって、ぐずぐずしている自分がいたように思えた、ってことだった。
 たぶん彼女も同じことを考えていたんだと思う。

 数日経って、僕と彼女は一緒に帰ることにした。聞いたら、帰路は途中までほぼ同じだった。帰る時間が合わないだけということだった。僕は友達と残って遊ぶことが多かったからだ。本当は、帰りの電車や歩きの間は一人でいたい。だが、同じ方面と聞いた上で一緒に帰らないって選択肢を取るのは、道徳的ではない。
 電車で人と一緒に乗っている時間というのは、僕にとってはとても疲れる。たとえよく知っている人と一緒だろうと、話しているうちに話題は途切れる。こういう時間は音楽を聴いたり本を読んだりウトウトしたり、そうして自分の世界と向き合うのが大切なんだ。もちろん彼女と話すのは好きだ。だが、それは別の話だ。
「Don't you hate that?」
「... Hate what?」
「... Uncomfortable silence.」
「……ふふっ」
「ごめんなさい」
「僕はあまり映画を見ないけど、たまたま知っていたよ」
「私は結構好きなの」
「いっぱいあるからどれを観ればいいのかわからないんだよね……」
「通ぶりたいわけじゃないなら、好きなものを観ればいいんだよ」
「そうだね」
「今度私と一緒に観る?」
「えっ」
「?」
「……」
「あ、変な意味じゃないよ」
「僕もそう思わないけど、世間の人は」
「世間がどうしたの」
「……そうだね」
「……うん……」

 女性の家に行って映画を観る。ある程度の身だしなみはわかっている。性欲は強くないけど、ないわけではない。ただ、ただ、なんかいやな感じがするだけだ。罪悪感とかじゃなくて。自分のことが嫌いなだけなんだ。ただ傷つきたくないだけなんだ。

 上品な家だった。でも人がいる気配はなかった。今ちょうどどっちも海外で仕事しているの。短期だから私は日本に残ってる。それは「世間の人」がいうところの、「変な意味」だ。でも、僕もそういうのは嫌いだ。だから二人でただ映画を観るだけ。けっしてやせ我慢とかじゃなくて、本当にそのほうが気分が楽だった。純粋な映画鑑賞。

 彼女の部屋はかたづいていた。でも生活感はわずかながらも色濃くあった。「女の子の匂い」がした。彼女はけっしてあがめられるようなアイドルではなかった。同じ人間なんだって実感があった。いっそう魅力的だと思えた。何がいいのかなぁ。何がいいって聞かれても、僕は素人だからよくわからない。素人だから呼ばれたものだと思っていた。アクションがあるといいかも。でもアクションだけだと飽きちゃうかも。単純な勧善懲悪モノも好きじゃないかな。わかった。君らしい好みだね。そうかな。わからないけど。
 僕たちは普通に映画を観た。二時間程度だった。面白かった。ソムリエと呼んでも怒られないと思う。ソムリエなんて私には似合わないけど。まあ僕は呼びたくはないかな。そうね。今日はありがとう。また来てね。

 彼女の部屋を出ようと荷物を片付けにかかったとき、少し落ち着かない配置に箱があるのを見た。彼女が映画を片付けている間に、少し近づいて中身を見た。ウイスキーだった。少なくともウーロン茶ではなかった。
「ねえこれって」
「!」
「お父さんの荷物?」
「……そう。厳密にはお母さんの。もう七時だから早く帰ったほうがいいよ」
「そうだね……」

 家を出てもよく状況が飲み込めなかった。いや、事態は簡単だ。彼女の部屋にウイスキーがあった。それは母親のものだった。これだけだ。これだけなんだ。これだけだから問題はなかった。

「おはよう」
 彼女は普段と同じようにあいさつをしてくれた。
「おはよう」
 僕も普段と同じようにあいさつをした。

 四限もそろそろ終わり、昼休みになる。あとは、いつもの友達と弁当を食べようとするつもりだった。そんなとき彼女が教師にバレないよう、僕の耳元まで口を近づけた。

「今日は一緒に食べない?」

 語気に「変な意味」はなかった。あったのは、イタズラ小僧のナイショの作戦会議だった。

「君のお弁当おいしそうだね」
「自分で作ってるんだ」
「すごいね」
「君もでしょ」
「君がすごいのは変わらないよ」
「そうかな」
「ねえ」
「……なに」
「そろそろ三連休でしょ」
「……そうらしいね」
「また家に来ない?」
「……」
「泊まりで」
「ねえ、僕は全然いいんだ。塾も通ってないし友達と遊ぶ約束も入れてない。君の家に泊まることは全然できるよ。親にも『友達の家に泊まりに行く』って言えばいいんだろ?」
「察しがいいね」
「……」
「変な意味じゃないよ」
「わかってるよ」
「何を悩んでるの?」
「……そうやってニヤニヤされるのが好きじゃないだけだよ」
「じゃあ金曜日の放課後からおいでよ。私も君に合うような音楽とか映画とか探してきたからさ。私今まで自分と趣味が重なりでもする人と会ったことがなかったの。懐古主義とかサブカルとかじゃなくて、単純にいいものをいいものとして楽しみたいの。それだけのことを一緒にできる人ってもう一生会えないかもしれないじゃない。だからこんな気分が高まっちゃって」
「……何泊?」
「好きなだけ」
「困る」
「じゃあ月曜までいて学校に一緒にいけばいいじゃない」
 彼女は意地悪そうな顔をしてニヤけていた。初めて、素の自分を出してもいいような相手に出会えるっていうのは嬉しいものだし、僕も嬉しい。だから僕はからかわれるのを受け入れた。むしろ、僕もやけになって
「じゃあお言葉に甘えて」
 なんて返してしまった。彼女は少し驚いていたけど、嬉しそうだった。美しい瞳が笑いで細まっていた。

 親には特に何も言われなかった。成績は良いし、それに親も昔は散々遊んでいたから、男友達とバカ騒ぎするのは当然認めてくれた。四泊五日は準備が少し大変だ、ってことだけが強いて言えば問題だった。コンドームは……使うようなことはしたくないから持っていかなかった。

「今日から五日よろしく」
「こちらこそ。もう出かけないよね?」
「そうだと思うよ」
「じゃあ今のうちにお風呂入ろうよ。どうせ遊び始めたら行くタイミング失うでしょ? その間に部屋片付けるから、君は先に入ってて。場所は……まあすぐわかるよ。どこ見てもらってもいいから探しといて」
「わかった」

 いい湯だ。でもそんなことを考えている場合ではない気がする。まあでももうどうでもいいや。なるようになる。ならないようにはならない。それだけだ。お互いの自分は、全部さらけださないほうが、お互い幸せだ。お互いに傷つかずに、淡い思い出で終われる。

 お風呂から上がって、部屋に行き、彼女は代わりにお風呂に入った。僕は待てばいいの? 漫画でも読んでてよ。わかった。僕はドラえもんを読んでいた。火の鳥を読む気分ではないから、ドラえもんを読んだだけだ。やっぱり面白い。
 すぐに飽きた。厳密に言えば、すぐに読み終わった。彼女が長風呂とかではない。他の漫画は長編だし、今読んでも尻切れとんぼで終わるだけだ。ちょっとぐらい待ってもいいかな、と思った。でもやっぱり飽きる。僕の中にあるアイデアが浮かんだ。
「あの箱どこにやったんだろ」
 女の子の部屋に呼ばれたあげくに部屋を物色するなんて、世間からするとアウトだ。でも彼女はおそらくそんなことは気にしない。彼女と僕との間で道徳的であればよいのだ。いや、それでも道徳的ではなかった。好奇心が勝ったのだ。
 押入れを開けるとウイスキーがあった。ジョニーウォーカーと書いてあり、黒いラベルが貼ってあった。

「何してんの」
「あっ……」
「……」
「そのさ、ほら……」
「……聞いてるよ。続けて」
「ごめんなさい」
「……謝る必要はないじゃない」
「そうかな……」
「それ私のウイスキーよ」
「……」
「これで満足?」
「ごめん」
「はぁ……」
「あなたお酒飲む人嫌い?」
「お酒に飲まれる人は嫌い」
「あっそ」
「……うん」
「……もういいよ、一緒に飲もうか」
「でも僕たち」
「未成年が飲酒しても罰せられることはないし、責任は勝手に物色したあなたにあるんじゃない?」
「……わかっ」
「ほらじゃあ、一緒に用意しよう」

 なぜか冷やしたグラスがすでに二つあった。氷はどうやら専用の機械でボール状に作ったらしい。彼女は炭酸水とグラスと氷、それからハーゲンダッツとスプーンを持った。晩御飯は食べなくてもいいでしょ? はい。私怒ってないよ。ごめん、なんか、うん。謝るなって。一緒に飲むんだから。そうだね。まあ食べたくなったら作ればいいでしょ。結局僕らは晩御飯を食べなかった。
 映画鑑賞会でもセックスでもなく、犯罪行為をするとは思いもしなかった。

「な〜んて思ってる?」
「もう早く飲みましょうよ」
「敬語を使われるほど耄碌した覚えはないけどなぁ」
 彼女はグラスにウイスキーをトクトクと音を立てて注いだ。
「じゃあ飲んでいいよ」
 コーラを飲む感覚で口にした。
「ゲホッ、ゥエゲホッ、これ理科実験室のアルコールランプじゃないか! 飲めるわけないだろ!」
「まず、アルコールランプはランプであってアルコールじゃないわ。次に、度数四十のウイスキーをいきなりストレートで飲ませたのは私の責任よ。普通は氷を入れて炭酸水とかで割って飲むの。これをハイボールっていうわけ」
 またあの薄ら笑いを浮かべてウィルキンソンのペットボトルを僕の目の前で揺らしてみせた。因果応報にしては不平等な気がする。
「ま、私はストレートでも飲めるから。ちょっと貸して」
 彼女は僕の飲んだグラスをひょいと手に取り、一気に入っていたウイスキーを飲み干した。驚いた。
「君はここにあるハーゲンダッツウイスキーを垂らして飲むのから始めるのがいいよ。ただそのまんま注ぐんじゃなくて、スプーンをアイスの上にかざして、スプーンにゆっくりとウイスキーを垂らす気持ちで注ぐほうがいいの」
「わかった」
「うんそうそう。上手だよ」
 ハーゲンダッツはバニラ味だったのだが、急にチョコの、しかも「奥行きのある」チョコの味がした。
「3Dのチョコ味だね」
「ふふっ」
 こういう彼女の微笑みには弱かった。彼女はその間にどんどんと飲んでいった。僕もハーゲンダッツとともにどんどんと飲んでいった。

「カフェイン! ニコチン! アルコール! いずれも大麻やコカインと同等に『ドラッグ』として扱われるべきじゃない?」
「君の言う通りだと思うよ」
「君もモンスターエナジーとか飲んで思うでしょ?『うわっカフェインってやっぱドラッグだわ』みたいなさ笑」
「うん笑」
「今どんな気持ち?」
「ちょっと感覚が輻輳された感じ?」
「そうそう!」
「これはドラッグだよねぇ」
「ドラッグだねぇ」
「君が隠そうとしたのもちょっとわかるかも」
「んふふ。そう?笑」
「うん」
「ねぇ」
「なに?」
「一緒に寝てくれない?」
 このときだけ、彼女はいつものおちゃらけた感じとは違う、心の底から出したような声をしていた。
「うん」
「……ありがとう」

 彼女と一緒のベッドで寝た。お互い触らないようにしていたけど、彼女は僕を抱きしめてきた。とても興奮した。初めて、他人に自分の存在を受け入れられたような気がして、嬉しかった。性欲なんかじゃない。自分のことを受け入れてくれる人がいる。それだけでよかった。僕も彼女と抱き合って、寝た。安心して、寝た。

 朝起きは得意だ。起きたら彼女の寝顔が目の前にあった。とても美しかった。彼女は目を閉じ、一切の悪意を持たず寝ていた。彼女は決して天使などのような清純な存在ではない。でも汚したくなるような存在でもない。ただ、対等にいたい。もっといえば、自分のことを受け止めてもらいたい存在だった。彼女は起きた。しばらくの間、僕と彼女は目を合わせて黙りこくっていた。
「これが uncomfortable silence だよ」
「uncomfortable だったかな」
「uncomfortable に留まることは uncomfortable なのよ」
「そう」
「うん」

 映画を観る体力もなかった。フィネガンズ・ウェイクが好きなんでしょ、とアイルランドの民謡を歌ってくれた。ケルト風の音楽だった。

 Tim Finnegan lived in Walken' Street
 A gentleman Irishman mighty odd;
 He seen a brogue so soft and sweet
 And to rise in the world he carried the hod

 Tim had a sort of a tipplin' way
 With a love of the liquor now he was born
 To help him on with his work each day
 Had a "drop of the cray-chur" every morn

 Whack fol the da O, dance to your partner
 Welt the floor, your trotters shake;
 Wasn't it the truth I told you?
 Lots of fun at Finnegan's wake!

 One mornin' Tim felt rather full
 His head felt heavy which made him shake;
 Fell from a ladder and he burst his skull
 So they carried him home his corpse to wake

 Rolled him up in a nice clean sheet
 Laid him out upon the bed;
 A gallon of whiskey at his feet
 A barrel of porter at his head

 Whack fol the da O, dance to your partner
 Welt the floor, your trotters shake;
 Wasn't it the truth I told you?
 Lots of fun at Finnegan's wake!

 His friends assembled at the wake
 And Mrs. Finnegan called for lunch
 First they brung in tea and cake;
 Then pipes, tobacco and whiskey punch

 Biddy O'Brien began to cry
 "Such a nice clean corpse, did you ever see?
 Tim mavournin, why did you die?"
 Arragh, shut your gob said Paddy McGhee!

 Whack fol the da O, dance to your partner
 Welt the floor, your trotters shake;
 Wasn't it the truth I told you?
 Lots of fun at Finnegan's wake!

 Patty O'Connor took up the job
 "Ah Biddy," says she, "You're wrong, I'm sure"
 Biddy gave her a belt in the gob
 Then left her sprawlin' on the floor

 Then the war did soon enrage
 Woman to woman and man to man
 Shillelagh-law was all the rage
 And a row and a ruction soon began

 Mickey Maloney lowered his head
 And a bottle of whiskey flew at him
 Missed, and fallin' on the bed
 The liquor scattered over Tim!

 Tim revives! See how he rises!
 Timothy risin' from the bed
 Sayin', "Whirl your liquor around like blazes
 Thunderin' Jaysus! Do you thunk I'm dead?"

 Whack fol the da O, dance to your partner
 Welt the floor, your trotters shake;
 Wasn't it the truth I told you?
 Lots of fun at Finnegan's wake!

「いい曲だね」
 本当は「君の歌声は美しいね」と言いたかった。心からそう思っていても、キザに聞こえるからやめた。
「それならよかった」
 彼女はトレジャラーと書かれた黒と金に包まれた箱からタバコを取り出し、静かに火をつけた。
「タバコも吸ってるの?」
「嗜む程度にね」
「僕には分からない」
「それでいいと思う」
「依存しないの?」
「バカは依存するよ」
「なるほど」
「君はバカじゃないよ」
「でもやらないよ」
「そう」

 そうして僕らはベッドに転がって音楽や映画を楽しんだ。イヤホンは二人で半分こした。こんなことをしていると耳が悪くなりそうだったが、彼女と退廃的な生活をするのは幸せだった。彼女はいい匂いがした。女の子の匂いだった。大人びていても、ドラッグをしていても、彼女は十七歳の少女だった。

「どっか外出る?」
「どこに行くの?」
「どこでもいいけど」
「どんな遊び場も飽きたんだけど」
「私も」
「じゃあ家にいる?」
「んー」
「どうしようか」
「……抱き合う、とか?」

 僕たちは抱き合った。掛け布団をかぶっていたからかもしれないが、とても暑かった。

「暑いね」
「私は布団がないと落ち着かないの」
「そうなんだ」
「でも私も暑い」
「……脱ぐ?」
 自分でも最低なことを言ったと思う。あれだけそういうことはしないって決めてたのに、なぜか口走ってしまった。
「いいよ」

 彼女はブラジャーとパンツだけになり、他の服を投げ捨てた。掛け布団で身体はほとんど見えなかった。僕も脱いだ。

「人肌」
「うん」
「私こんなに落ち着いてもいいのかな」
「うん」
「……」
「僕は幸せだよ」
「そう」
「君も幸せ?」
「かもね」
「よかった」
「普通ならあなたはここで押し倒すのよ」
「やだよ」
「……傷つきたくないから?」
「……さあ」

 僕たちはそれから数十分、沈黙を守ったまま、下着姿で抱き合っていた。お互いに心が通じるかもしれない。そんな淡い希望をいだいて、目をつぶり、お互いの肌を感じていた。彼女も目をつぶっていた。僕は一七五、彼女は一七〇だったから、ほとんど差はなかった。母親に与えられるような非対称な愛ではなく、お互いに対等な、もろくて壊れやすい愛を僕たちは感じ始めていた。

「もう十二時だね」
「お腹減ってないけど」
「私も」
「こんな退廃的でいいのかな」
「そのために君はきたんじゃない?」
「それはちょっと違うと思うよ」
「そうかな」
「うん」
「ワイン、飲む?」
「こんな昼間から?」
「昼から飲んでいけないわけがないでしょ」
「法律はダメだと言ってるよ」
「何とでも言わせとけばいいじゃない」
「じゃあいいよ」
 彼女はブラジャーとパンツ姿でベッドから出た。何か着ていくかと思いきや、そのままキッチンまで出ていった。僕は少しあっけにとられて、ベッドで横になっていた。

「あなたには赤ワインは早いだろうから、シャンパンを持ってきたわ」
「えっ」
 ラベルにはドン・ペリニョンと書いてあった。
ドンペリって高いイメージあるでしょ? 本当は二万五千円ぐらいなの」
「それは高い……んじゃないかな」
「私は物欲がないから、こういうところにお金を使えるの」
「そっか……」
「ほら飲もうよ。客人用に用意してあんの」
「うん」

 下着姿の思春期の男女が二人きりの部屋で高級シャンパンを飲んでいた。ウイスキーよりかはよっぽど飲みやすかった。

「君はゲイじゃないでしょ?」
「ゲイではないかな」
「バイ?」
「わからない」
「女の子はイケる?」
「人並みには」
「ふーん」
「それは変な意味?」
「いや、君とセックスしたり恋愛ごっこしたりしたいわけじゃないの。でも、したくないってことじゃなくて……」
「いやわかるよ」
「あ、わかってくれた?」
「わかるよ」
「ふふっ」
「おかしかった?」
「ねぇ、キスしない?」
「……今そういう気分じゃないかな」
「そう、じゃいい」

 そう言って彼女は綺麗な喉筋と明確な輪郭を見せて、グラスを傾け、中のシャンパンを飲み干した。僕たちは時間なんて気にせずに、一瓶をついに空にした。彼女はすぐに酔って、僕もまた不思議な感覚に陥った。
 彼女は僕をベッドに来るよう目でお願いした。僕も、彼女の目を見てベッドに行った。
「あなたは自分のこと好き?」
「さあ」
「自分のこと受け入れられる?」
「さあ」
「自分のことが嫌いなの?」
「さあ」
「私は自分が嫌いよ」
「そう」
「あなたは私のことを受け入れてくれる?」
「……君がどんな人かまだ教えてくれないのに?」
「じゃあもし私が自分をさらけ出したら、受け入れてくれる?」
「……うん」
「信じていいの?」
「うん」
「なんでここにいてくれるの?」
「僕たちが歪だからじゃない?」
「……どこか欠けているから、じゃなくて?」
「……そんなことはないよ」
「お互いに傷の舐め合いをしているだけじゃないのかなって不安になりそうで」
「それの何が悪いの」
「……悪いんじゃないかな」
「世間の言うことに、君が考えることを合わせる必要はないんでしょ」
「……そうだったね」
 彼女は僕から微妙に目を逸らし、髪を少しいじりながらバツが悪そうにしていた。
「でも僕は君みたいにドライになりたい」
「……ドライ、か」

 でも正直なことを言えば、僕も救われたかった。僕も自分の弱さを打ち明けたかった。彼女に救われたかった。受け入れられてほしかった。彼女は純朴なんだ。多少の痛みを味わっていても、本当の痛みに苦しんだことがない。可能性上の痛みを考えることはあるけど、結局こうして僕に頼れるほどには傷を負っていないんだ。今まではただ予防としてのバリアを張って過ごしていただけ。ドラッグは全部、憂さ晴らしというよりかは、楽しみのためにやっていただけ。
 彼女が愛おしくて、憎くて仕方なかった。

 起きたら彼女の顔がすぐ近くにあった。彼女は目を開けていた。目が合った。唇はもう数センチだった。お互いに鼓動が早かった。どちらが先に出るかの問題だった。でもまだそういうことをするのは早かった。「今何時?」僕は知らないふりをして聞き、彼女も全く平然を装って携帯に手を伸ばし「午前一時」と答えた。
 キスをして全身を愛撫しあってセックスをすれば、僕も彼女もこんなクソッタレな世界から救われるのかもしれなかった。お互いがお互いを必要としながら、二人で一つになれる。でも、そんな救いなんてきっとまやかしだと思う。彼女も心のどこかでそう思ったんだろう。結局、電気をちゃんと消して、また寝た。

 もう一度起きたら午前七時だった。おはよう。おはよう。朝ごはん、食べる? いらない。だよね…… シャワー使っていい? ……うん 先いい?
「一緒に入らない?」
 僕はなぜかイラついてしまった。
「そうやって慰められたいの?」
「えっ」
「えっごめんなさい」
「あっ、あなたが先にどうぞ」
 彼女は慌てふためいていた。彼女は救われ始めているのに自分はその勇気がなかった。ムカついて、ついに言ってしまった。心を開いてもいいのかなと思い始めていた彼女。自分は最低な野郎だと思った。
 自分は最低だ。
「どうも」
 彼女はそれでも美しかった。

 罪悪感と自己嫌悪につつまれて帰ってくると、彼女は掛け布団の中にいた。

「ごめん、あの」
「いいの」
「違うんだ」
「違くないよ」
「落ち着いて」
「落ち着いてる」
「……」
「いいの」
「自分が嫌いだから、僕が好きな君を傷つけちゃったんだ……」
「なにそれ」
「正直に言いたかったんだ」
「傷つけて告白するなんてサイテー……」
「……僕を殺してほしい」
「……殺す」

 彼女は彼に飛びつき、彼女も同じ類の人間で、彼は死んで救われたかった、時間はその場だけ止まり凍りつき、彼女は手に力を込め、瞳孔は異様なまでに開いていて、本気で殺すつもりで首を絞め、彼は生理学的な反応すら抑えて、ただ死を受け入れてようとしていて、彼女の手が与える苦しみと温もりと自分にまたがっている彼女の存在を、心から初めて愛せるかなと思い、彼女は彼が心の底では怖がっていただけだったのだと分かって、殺す気がなくなってしまい、肩の力がすぅと抜けてしまい、二人はただ騎乗位の姿勢で、どちらが先に言葉を発するかただただ、じいと待ち尽くしていた。

「綺麗な手だね」
「そう」
「今度指輪を買おうよ」
「あんたに買えるの?」
「バイトするよ」
「そんなことすんなよ」
「なんでもするさ」
「じゃああたしのこと見ろよ!」
「……うん」
「……あいしてる」

 彼女はダメな男に引っかかるタイプだ、と彼は冷静に思った。でも自分が幸せにしてやるという気には彼はならなかった。彼は愛されるに値しないと思っていた。彼女は結局彼を愛しているのではなかったんだろう。誰でもよかったんだ。本当に他人を好きになったことなんか無いんだ。自分しかここにいないんだ。きっと、その自分も好きだって感じたこと無いんだ。だって彼もそうなんだ。彼は最低だった。
 彼は最後の殻に閉じこもっているだけなんだ、と彼女は思った。彼女は悲観的だったが希望を捨てることはなかった。もろくて逞しい女性だった。彼はきっと彼女のすべてを理解してくれると思っていた。でも彼女はそれが自分勝手なワガママだということをよく理解していた。誰も他人を理解することなどできるわけがない。誰も他人のそのままを受け入れるどころか見ることすらできない。勝手に期待して、勝手にバカなことをして、勝手に傷ついて、勝手に閉じようとしているだけ。
 二人とも、ただ救われたいだけだった。お互いに弱いから、依存する相手が欲しかっただけだった。
 僕は彼女を上からおろし、互いに背を向けて横になっていた。

 十分ほどして、僕は彼女の方を向いた。彼女は僕が向きを変えたことにおそらく気づいていた。
「……こっちを向いてよ」
 彼女がふてぶてしく僕の方を向いた瞬間に、僕は彼女の頭を抱いてキスをした。彼女は意地を通そうとしていたが、もう演じることに無理を感じて、舌を絡ませてくれた。まやかしでよかった。神様はサイテーだ。
 時間は、キスが終わっても止まったままだった。

「……コンドーム持ってないけど」
「……生理不順だったからピル処方されてる」
「……」

 僕たちはセックスをした。

「前世とか来世とかってあると思う?」
「さあ」
「私はないと思うの」
「そう」
「だってよく考えてよ。もし仮にいわゆる輪廻転生があるとするじゃない。最初の命は神が与えたということにしておくにしても、おかしいでしょ。私が死んで来世に行くとする。そうすると、私と来世の私は、何らかの意味でつながりを持っていなきゃいけないはずでしょ? 仮にそういう性質あるいは実体をXとおくことにする。でも私が私を私だと思うものが死んだときに消えちゃうなら、Xが来世に引き継がれたってことを確認するのは無理。だって、『たまたまXを有するヒト』と『輪廻転生の結果としてXが引き継がれた来世の私』って、それが消えちゃったらもう誰もわからないもの。一方でそれがまだ死んでいなくて、私のことをちゃんと確認できるまま来世に行くとするじゃない? でも、今の私にそういう記憶がない以上、来世に行った私は来世の私とは『別人』のはずなの。それって、もう私は『霊魂』になった、『死んだ』ってことじゃない? もしくは今の私が、神が与えた最初の輪廻なのかもしれない。けど、私だけじゃなくて他の人もみんな口を揃えて「前世の自分なんて自分の中にはいない」って言うでしょ。じゃあそれって、仮に少数の例外があったとしても、一回こっきりで終わる輪廻じゃない。それってただ『生まれて死ぬ、無から有から無』が各人に平等に起こるだけでしょ。じゃあもうこの人生って一回こっきりなの。君と逢えたのも、一回こっきりの人生で起きた、今後何億年経っても、もう二度と起きないの。」
「……『結局わかりようがないんだけど、少なくとも僕たちの使う意味ではありえない』ってことでしょ?」
「そういうこと」
「当たり前じゃないか」
「違うの」
「何が?」
「私たちがこうやって、違う、こんなわたしがきみと一緒に、こうやって永遠を感じられるような心持ちでいられて、それでいて、こんな美しい光景は、わたしが死んでしまえばもうわたしの世界から完全に消えてしまって、きみもいわば死んでしまって、もうそれで終わりになって、もう二度とそういう瞬間は来なくなるの、永劫の別れをわたしは味わなければならないの、仮に限りない時間の末に今までの地球の状態が完全に素粒子ひとつ忠実に再現される世界ができても、そこにいる私はもう私とは別人なの、そんな過酷な現実を受け入れないといけないの」
「だから僕たちは今こんなに幸せなんだよ」
「幸せだからこそ」
「僕も似たようなことを思ったことがあるよ」
「うん」
「……でもそんなことを考えるのはただ無意味なんだ。わからないことと、わかりようがないことは違うんだ。わかりようがないことに時間を使うのは、わからないことをわかろうとする時間を減らすだけなんだ」
「……そう」
「……そうさ」

 彼女はまたタバコをふかした。綺麗な横顔を見て、彼女の言うことがわかったような気がした。

 昼下がり、さすがに不健全だと思って、外に出かけた。僕も彼女もパーカーで済ませていた。どうせ家に帰ったら脱いじゃうんだし。外っつらを大して気に留めないのは共通していた。

「マセたカフェに行くのもなんかヤだけど、豚骨ラーメン屋に入るような気分でもないわ」
「いつもの元気が戻ってくれてよかった」
「気を浮つかせたのは誰かしら」
「そいつを家に呼んだアホの顔も見たいけど」
「まあそこにある回転寿司で済ませる?」
「ピークは外れていると思うけど、三連休だから混んでるんじゃないかな」
「じゃあスタバとか」
「それが楽かな」

「久しぶりの食事じゃない?」
「僕は気にならなかったけど」
「まあね」
「キッシュおいしいね」
「でしょ」
「君のフラペチーノちょっと飲ませてよ」
「ストロー一個しか貰ってこなかった」
「問題ある?」
「ない」
「いただき」
「全部は飲まないでよ」
「そんなに強欲だと思った?」
「思春期の男性は基礎代謝量が高いの」
「初耳だ」
「じゃ女性にもコーヒーを飲ませなさい」
「いいよもう好きにして」
「お酒のない食事はお嫌いですか?」
「お酒と食事は関係ありません」
「そういう二項対立を脱構築しないといけないって現代文の教師が言ってたよ」
「よく意味も分かっていない哲学用語を振り回す現代文の教師が?」
「親でも殺された?」
「親は元気だよ」
「私の親は海外だよ」
「だからなに」
「またしたくなった」
「食事すると性欲わかないし」
「し……?」
「お詫びに一緒にお風呂に入ろうって、ほら、思ってて、さ。君も実は入ってないでしょ」
「……ありがと」
「今は食べようよ」
「ん」

「普通はお背中を流しますのは女性じゃない?」
「そういうのを現代文ではアナクロニズムって言うんだよ」
「じゃあアヴァンギャルドな入浴?」
「何とでも言って、ほらシャンプー流すよ」
「うぷっ……そんなに生意気なら体も洗ってもらおうかな」
「コンディショナーが先」
「はいはい天才くん」

「結局僕が体洗ってあげるなんて、介護じゃないんだよ」
「でも背中に熱いのが当たってたよ?」
「それは股まで洗わせたから」
「君もおとなしそうな雰囲気しといてムッツリじゃん」
「……度し難いよ」
「将来の介護に使えるかテストしただけ」
「じゃあ君も僕の介護ができるか洗ってくれればよかったんだけど」
「私をソープに沈めてみれば完璧に洗えるようになるけど」
「それは笑えない冗談だよ」
「今度ごっこしてみる?」
「やだ」
「じゃ今ここでパコる?」

「精液って水に触れるとあんな風に凝固するんだね〜」
「体洗い直すのが大変だ」
「このまま綺麗なお身体でお帰りになれると?」
「たしかに……」
「今度は慰め合いじゃなくて、快感のためだけのね」

「もう空っぽだよ……」
「見たらわかるよ……」
「でも快楽に溺れるのもいいでしょ」
「嫌いじゃないかな」
「嘘つけ、隣にすぐハメれる心を許しあった美少女がいて、どうして思いつく限りの変態なことをしようと思わないことがあるの?」
「でもセックス自体より、こうして君と一緒に新しいゲームを攻略しているような気分になれるのが楽しいかな。二人プレイだしコンピュータもいないから、協力感がすごくて」
「開拓者精神ってやつ? 少年よ、美少女を抱け!」
「すごい失礼だよ」
「じゃあそんな君は酔ってするのは興味ない?」
「そういうの世間でなんて言うか知ってる?」
「キメセク?」
「……おすすめの持ってきて」

 月曜日の十二時。彼女は正常な息をしていた。昨日がよく思い出せない。甘いワインだった。二人で三本飲み切って、それで、それで、あれ? それでちゃんとたったのかなぁ? 古代史を研究している人ってのはこんな気分なのかもしれない。彼女からは女の子じゃなくて女の匂いがした。ベッドはむちゃくちゃだった。

「ねえ」
「起きてたんだ……なに?」
「私たちってどういう関係かな」
「悪ガキコンビ」
「マセガキコンビじゃない?」
「どっちでもいいよ」
「あなたって恋愛感情ある?」
「わからない」
「そっか」
「目が見えない人が急に目が見えるようになって、今まで話に聞いていた赤色を見たような感じかも。赤色っぽいことはわかる。でもそれが『本当に』赤色なのかは自信がもてない。だから赤色を知ってるふりをする。赤色がどれか区別もできる。他人からは何も不思議なところはない。でも心の中では一〇〇%の自信は持てないんだ」
「親に恵まれなかったの?」
「親から与えられるのは非対称な愛。僕たちが感じているのはそういうのじゃないでしょ」
「別種ってこと」
「そう」
「じゃあどうやって世間では愛が自明のように論じられるの?」
「わからない」
「私も」
「……シャワー浴びてベッド綺麗にしない?」
「どうせ昼ごろになったらまたサカるよ」
「そうかな」
「私はそう」
「それじゃセフレじゃないか」
「カレシカノジョの関係がよかった〜?笑」
 彼女は久しぶりにニヤけじゃない笑いを見せた。ムカついて、いじめたくなった。
「じゃあ付き合ってよ」
「えっ」
「嫌?」
「嫌じゃないけど……」
「セフレと恋人のどっちが好きなの」
「……セックスする恋人」
「……そうだね」
「そうやってからかうのやめてよ」
「ごめん」
「私がじゃなくて、君が傷つくだけだよ」
「……」
「返事しなよ」
「ぐうの音も出ないよ」
「そう」
「そう」
「私たち歪んでるよ」
「いいよそれで」
「……指輪、買いに行く?」
「そんなことよりさ……」

 まやかしの愛から始まる本物の幸せ……そういう可能性を考えたことはなかった。僕は幸せだった。彼女も幸せだった。僕らは幸せだった。永遠にこの時間が続いてほしかった。昼下がりの、カーテンからの日差しがチリとホコリとを浮かび上がらせ、ともにうつろな目をしながらいつまでも抱き合っていた。

 宿泊用の荷物は一旦彼女の家に置き、一緒に学校に出た。放課後に戻ってきて荷物を取り自分の家に帰る算段だ。学校はいつも通りだった。お互い意識はしていても、お互いにブラフをかけていた。付き合っていることを公言する理由もないし、こんな関係を恋人と呼ぶのは何か違う気がした。弁当ぐらいは一緒に食べることにした。冷やかされるのは好きじゃないのだが、案外、他人は他人のことを見ていない。「気が合う友達」ぐらいにしか思われていなかった。それでよかった。
 改めて見ると、彼女は美しかった。前は恋なんてわからないなどとのたまったが、これが愛おしいという気持ちなのかもしれなかった。あのとき殺されても、良かったのかな、なんて思ってしまった。
「よしそこ、ここを音読しろ」
 ボーッとしていたので急に自分が指されて驚いた。そういえば席順は僕だった。
「えーと、どこだっけ」
「ここよ」
「ありがとう」
「早くしろー」
「えーと、J’ai retrouvé dans l’eau Marie Cardona, une ancienne dactylo de mon bureau dont j’avais eu envie à l’époque. Elle aussi, je crois. Mais elle est partie peu après et nous n’avons pas eu le temps. Je l’ai aidée à monter sur une bouée et, dans ce mouvement, j’ai effleuré ses seins. J’étais encore dans l’eau quand elle était déjà à plat ventre sur la bouée. Elle s’est retournée vers moi. Elle avait les cheveux dans les yeux et elle riait. Je me suis hissé à côté d’elle sur la bouée. Il faisait bon et, comme en plaisantant, j’ai laissé aller ma tête en arrière et je l’ai posée sur son ventre. 」
「訳してくれ」
「えー、私は水のなかでマリ・カルドナに再会した。彼女は事務所に昔いたタイピストで、当時から私は憧れを抱いていた。彼女も同じように思ってくれていたと思う。だけどしばらくして彼女は事務所を離れた。そのとき私たちには時間もなかった。彼女がブイに登るのを手伝ったら、その拍子に彼女の胸に触れてしまった。彼女がブイの上にうつ伏せになっている間、私はまだ水のなかにいた。彼女は私の方を向いた。彼女の目に髪がかかって、笑った。私はブイの上の彼女のそばによじのぼった。良い天気だった。ふざけるようにして私は頭を彼女の腹の上に載せた。」
「少し意訳が入ったようだが許容範囲だろう。よし次」
「Elle n’a rien dit et je suis resté ainsi. J’avais tout le ciel dans les yeux et il était bleu et doré. Sous ma nuque, je sentais le ventre de Marie battre doucement. Nous sommes restés longtemps sur la bouée, à moitié endormis. Quand le soleil est devenu trop fort, elle a plongé et je l’ai suivie. Je l’ai rattrapée, j’ai passé ma main autour de sa taille et nous avons nagé ensemble. Elle riait toujours. Sur le quai, pendant que nous nous séchions, elle m’a dit : « Je suis plus brune que vous. »」
「彼女は何も言わなかった。私もそのままでいた。視界に天空が映っていた。青と金の色だった。えー……と」
「nuque は、うなじだ。英語だと nape だな」
「うなじの下で、マリのお腹が物静かに波打つのを感じた。私たちは長いことブイに居座っていた。私たちは半ば眠っていた。太陽があまりに強くなったので、彼女は海に飛び込んだ。私も後に続いた。私は彼女をつかまえて、彼女の腰に手を添え、一緒に泳いだ。彼女はひたすらに笑っていた。波止場でからだを乾かしていると『あたし、あなたより日に焼けているわ』と彼女は言った。」
「うむ、よく読めている。次」

 彼女のフランス語は儚い響きをしていた。

「今日のフランス語の授業でやった文章さ」
「うん」
「いい文章だったね」
カミュだからね」
「私あんまり仏文学読んだことなかったからさ……フランス語ちゃんとやったのも高校の授業が初めてで」
「いいんじゃないかな」
「あんな文章を読むと私は永遠を感じる」
「前も言ってたよ」
「かも」
「そろそろ着くからじゃあ」
「いや荷物を私の家に置いてたでしょ?」
「そうだった」
「私もだから人のこと言えないけど、ちょっと抜けてるところあるよ」
「今まで生きてこれたから大丈夫だよ」
帰納法は回ってないよ」

 僕たちは落ち着いていた。

 そうして僕らは春を過ごした。たまに会ってセックスをしたりゲームをしたりお酒を飲んだり映画を観たり、そう、七月には遊園地に行ったんだ。まだ暑くなり始める前だったし、あまり混んでいなかったからよかった。でも、僕はジェットコースターが苦手なんだ。彼女は大好きなのに。男だから我慢……とはならないけど、一人寂しく待っているのは悲しすぎる。死にはしないから大丈夫、それにいつ死んでもいいでしょ? そういう問題ではない。でも彼女の横顔はあいかわらず美しかった。だから、まあいいかな。甘んじて受け入れることは慣れていた。

 僕が自分を受け入れられるようになったのは冬になってからだった。

「パスポート持ってる?」
「え……?」
「日本国旅券」
「いやわかるよ」
アメリカ行かない?」
「え?」
「もう日本も遊び飽きたでしょ?」
「たしかに……」
「じゃあもう行くしかない」
「……行くしかない」

 親を説得するのは結構骨が折れた。お金の工面は貯金があったから大丈夫だった……というが、彼女からいくぶんかもらっていた。彼女の家はお金に困っていなかった。両親は趣味で共働き。ギャンブルも無駄遣いもせず、高いお酒やタバコをじっくりと味わう。彼女は塾にも行っていなかった。当然、お金は余る。僕は不甲斐なかった。

 終業式が終わってすぐに僕たちは羽田空港に向かった。デルタ航空の飛行機だった。中はすでに人種のサラダボウルだった。十五時間の旅を目の前にしていた。

「十五時間も何をすればいいのさ」
「小説でも読んでれば? 私は寝る」
「えっちょっと」
 彼女は耳栓とアイマスクをして寝始めた。シートベルトはしていた。
「まあいいか」
 僕は冬休みの課題をやろうと思った。だがもうどうでもよくなった。寝た。

 人間は十五時間も寝ることはできない。八時間もすれば僕らは完全に起きてしまっていた。あまりにも暇だった。僕たちは会話を交わすことなく、席についたナンプレをひたすら解いていた。僕は経験量が多いのでスラスラ解けたが、彼女は初めてだったので意外と手こずっていた。結局飽きた。会話するような雰囲気でもなかった。トイレに行ったりバーに行ったりして暇をつぶしても、やっぱり暇だ。だから冬休みの課題を二人ともやることにした。僕たちは本当にアホだ。

 ようやくワシントン州に着いた。僕はアメリカにあまり詳しくないので、みんながみんなニューヨークのようなゴタゴタした街並みなのかと思っていた。ワシントンはゴタゴタしていなかった。広かった。スケールが違う。数十年前にこんな国と戦争することになったのが信じられなかった。僕らは有名所を一通り回った。歩くのは慣れていた。こんな人工国家がここまで強くなれたのは驚くべきことだと感心していた。

「今回の旅の目的はこういう社会勉強じゃなくて……」
「て……?」
「じゃじゃん! あれです!」
 看板には marijuana と書かれていた。
「読めますか?」
マリファナ……」
「ここはアメリカだからマリワナだけどね」
「なんであんなおおっぴらにやってるの?」
「合法だから」
「えっそうなの」
「ただし二十一歳以上が一オンスまで買える」
「……じゃあ結局意味がないよ」
「ま、そこらへんの人間に高めの報酬で買わせりゃいいわけ」
「えっちょっと」
「人生は冒険!」

 僕は唖然として、近くにいた人の良さそうな若者に話しかけた。日本人は若く見えるということを知っていたにしても僕たちはどう考えても不審だった。が、彼女はかなりの額を持ちかけたようだった。金に目がくらみ、その若者は(持ち逃げしないよう)携帯を引き換えに、大麻を買ってくることを約束した。一応IDは持っていたようだった。数分して彼は戻ってきた。どうやら彼は怖気付いたらしく、利益を取ることを断った。ヤバいことに首を突っ込むと命が飛ぶということを体で理解しているのがアメリカ人だった。

「ラッキー」
「ラッキー、じゃないよ」
「いやラッキーでしょ」
「まあラッキーではある」
「それじゃホテル行こ」
「は?」
「もうあらかた見たでしょ」
「まああらかた見たけど」
「セックスより先に吸おうよ」
「セックスなんて一言も言ってない」
「じゃ私を警察に突き出す?」
「……わかったよ、でもこのことを日本に帰って言いふらさないほうがいいよ」
「当たり前でしょ」
「見せしめで逮捕でもされたら敵わないからね」

 彼女は予約していたホテルに僕を連れて行った。白を基調とした大きなホテルだった。どこのホテルかは言わないでおこうと思う。

 彼女は部屋につくやいなやガラス製の器具を取り出した。不思議な形をしていた。
「これはボングって言って……底に水を張って、あとはこいつを詰めて……よし、じゃあ私から吸うから見ててね。火をつけて……」
 一気に煙がボングの中に湧き立った。彼女は少し苦しそうな感じをした。数秒して彼女は口を離した。大きな煙が吐き出た。美しかった。
「じゃあ君も」
 ぜんそく持ちでもないから怖くはなかった。彼女のやったことを忠実に繰り返した。初めて煙をふかすのは難しかった。

 彼女は十分ほどで支離滅裂になっていた。暑いのか、服を脱ぎ始めた。僕はまだ平静を保っていた。彼女はついに全裸になった。僕だけ服を着ているのがムカついたのか、僕まで服を脱がせ始めた。でも服を脱がせることが彼女の目的だったようだ。僕が全裸になったら彼女は大笑いしてベッドに寝っ転がった。僕たちは幼稚園生の気分になっていた。

 三十分ほど経った。

 彼は突然瞳孔を真っ黒にさせ、ふいに泣き出した。顔をひざにうずくめ体育座りをした。嗚咽が漏れ出していた。ハイになっていた彼女も彼がおかしいことには気付いた。
「……大丈夫?」
「……クソ……」
「ヤバい……バッドトリップしてる」
「……誰か助けてよ……」
「ヤバ……ねえ、落ち着いて、大丈夫」
「大丈夫じゃないんだ!!!」
「いいえ大丈夫」
「自分は最低なんだ」
「あなたは最低なんかじゃない」
「自分が生きていると他人は傷つくだけなんだ」
「あなたがいるおかげで救われる人もいるのよ」
「それは償いにならないんだ」
「償う必要なんてないのよ」
「必要がなくてもすべきなんだ」
「大丈夫だから」
「……」
「落ち着いて」
「ころしてやる」

 彼は彼女を押し倒し力の限り首を締めた。彼女は倒れた。

 ぼくはなにやってるんだ……ぼくは……きみをころしてしまったのか……? ころして……ころして……

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 呼吸ができなくなり倒れた。男と女は、息をせず横たわっていた。

 ごめん……
 いいよ……
 結局ひとりでオナニーしてただけなんだ……
 わたしも……
 ちがうよ……
 ちがわないよ……
 救われたかっただけだった……
 わたしもそうだった……
 初めて許される日が来てもいいかもって思えたんだ……
 わたしもそう思えた……だからあれだけ誘ったの……
 ぼくはきみとは反対なんだ……拒絶されるのがこわいから、先にぼくのほうからこころを開かなかったんだ……そのほうが傷つかないんだ……快適だったんだ……幸せになれなくても不幸せではなかったんだ……
 そうやって他人を遠ざけるのは私もだったよ……
 どこが……
 道化を演じることは結局本当の自分から他人を遠ざけること……
 ……そうだったんだ……
 そうすれば傷つくのは本当のわたしじゃなくて偽物の私だもの……
 ねえ
 ……なに
 ぼくを許してくれる?
 ……許さないって言ったら
 ぼくをころしてくれって頼む
 ……許すって言ったら
 言ってくれてみないとわからない
 そう……
 うん……
 わたしのことは許してくれる?
 当たり前だよ
 誓える?
 神がいるならそいつに誓う
 うん……許すよ
 …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ありがとう

 気付くとベッドの上だった。横に置いてあったウイスキーが倒れて僕たちの体にかかっていた。彼女は起き上がっていた。

「ねえ」
「……ごめん」
「きみが夢に出てきたよ」
「ぼくも」
「同じ夢かな」
「……そうだといいな」
「今度は殺さないで、自分のこと受け入れてね」
「……うん」
「一人だけで救われようと思わないから、きみもそう思って」
「僕は……ぼくは、絶対にそうするよ」
「……空気吸いに行こう」

 綺麗な星空が寒い空気の中に輝いていた。

「もうタバコ吸うのやめなよ」
「……マセガキはおしゃぶりがほしいの」
「……いくらでも買ってあげるよ」
「あなたを一生しゃぶるってのは?」
「世界で一番気持ち悪くて意味不明なプロポーズだよ」
 彼女はタバコを吸うのをやめた。

解説

 この物語の登場人物は僕と、とある男性(Sくん)、とある男性(Nくん)、とある女性(Nさん)、その四人を全て混ぜこぜにして、二つの人格に分けたものです。まぜこぜにした理由は、僕の現実の延長線や単純な可能性にこの物語を置きたくなかったからです。その理由は、ひとえに僕が自分の過去を受け入れられていないからです。「自分のことを受け入れられない」というのは僕の人生における重要なテーマです。
 作中でも二人は自分のことを健全に受け入れることができていませんでした。「僕」は、最初から他人を遠ざけることで、嫌いな自分のせいでまた自分が傷つくことを回避しています。「彼女」は、違う自分(道化)を演じることで(『社交的と評されるのが常で』)、傷つくのを「本当の自分」ではなく「演じている自分」に転嫁しています。結局、「僕」も「彼女」も、形態は異なるだけで、本質的には他人どころか自分さえ受け入れることはできていなかったわけです。「僕」の場合は『自分が生きていると他人は傷つくだけなんだ』からです。「彼女」の場合は(特別な描写はありませんが)ジェイムズのくだりで『あえて言うことでもないから』と述べています。おそらく「彼女」は自分の趣味や生き方、思想が、誰にも共有されないことをある時期に悟ったのでしょう。自分の趣向をさらけ出しても誰も理解してくれない、それならもういいんだ。と、他人から本当の自分を隠して、他人を心の底では拒絶しているのが「彼女」です。根底には「無理解」が存在します。
「僕」と「彼女」はジェイムズを共通に繋がろうとします。「彼女」は自分のことを理解してくれるかもしれない「僕」を映画に誘います。しかし「僕」は他人に心を許すことで傷ついた経験があるのでしょうか、「彼女」には一切手を出さずに大変行儀よく映画を鑑賞します。それは律儀であり謙虚でもありますが、ある意味、他人への拒絶の裏返しだったわけです。「彼女」の家に行くことを拒まなかったのは、「僕」がそれでも傷つくかもしれないとわかっていても、「彼女」に希望を抱かざるを得なかったからです。
 映画を観終わって帰ろうとすると「僕」は思わずウイスキーを発見してしまいます。あまりに驚き、冷静だったらスルーするところを「彼女」に問いただしてしまいます。「彼女」は驚きますが、話しても*1理解してくれないことを今までの経験からわかっています。「僕」が推測した理由に合わせて、気持ちを落ち着けるために「僕」を追い返します。「彼女」は、理解されようとする覚悟が足りなかったのです。
 そんな中、「彼女」はついに覚悟を決めます。自分のことを理解してくれるためには時間がかかる。だから三連休を使って、このチャンスに賭けてみよう。そう決心して「僕」を誘います。ですから、「彼女」は最初からウイスキーを用意していました。ただ、そのことは「僕」には悟られていませんでした(『なぜか冷やしたグラスがすでに二つあった』)。一方で「僕」はウイスキーを探り当ててしまいます。「彼女」は、自分からさらけ出すのではなく、「自分の秘密が他人にこじ開けられた」ということに本能的な恐ろしさを感じてしまいます。でも、それは同時に、自分のことを理解しようとしてくれる人がいることでもありました。「彼女」は「僕」を少しずつ受け入れていきます。ほぼ裸で抱き合ったりワインを飲んだりするのは、自分を受け入れてくれる肉体的な他人を感じたかったからでしょう。セクシュアリティを聞いたのは、自分のことを恋愛・性対象として見てくれなかったら結局それは「対等な愛」ではなく「非対称な慰め」にしかならないことを恐れていたからです。
「僕」も少しずつ彼女を受け入れます。でも「僕」は(他人からの防護の仕方にも表れているように)「彼女」とは方向性が少し異なります。「僕」は、本質的に自分の存在が悪なのではないかと疑念を抱いています。
 その人間不信が出てしまったのが、「彼女」がついにセックスを求める際に、本当のことをグサッと言ってしまったことに表れています。一つには「彼女」だけ救われようとしていることに対する嫉妬もありますが、もう一つには「自分なんかが愛されるわけがないんだ」という(無意識的な)防御が、さらにもう一つにはそんな自分が好きになりかけている「彼女」が自分の言葉に期待を裏切られる姿を見て自分を傷つける(自傷行為)ことを目指しているということもあります。「僕」の屈折した姿は、自分の存在から本質的に由来している自己嫌悪に対処できないがゆえに生まれています。
 シャワーから帰ってくると「彼女」はおそらくベッドの中で泣いています。「僕」は絶望し、自分の気持ちを告白してしまいます。「彼女」はそのちぐはぐな対応に自分の気持ちを整理できなくなってしまい、それを殺意へと変えて「僕」の首を絞めます。しかし「僕」は死のうとしています。「彼女」はそのことを心で理解し、ついに殺す気がなくなってしまいます。お互いに胸の内をそれなりにスッキリさせたあとにセックスをします。「僕」はセックスによる幸せをまやかしの幸せだと断じていましたが、それでもいいんだ、と振り切ります。「彼女」は終わって、いわゆる世間一般で言われる「前世」「来世」といった概念が嘘くさいということを指摘します。ここで大事なのは「彼女」の論理展開ではなく、「彼女」は人生を一回きりのものとして捉えているということです。タバコを吸う姿は、肺がんなどの危険を顧みずに一回きりの人生を刹那的に楽しんでいる姿です。また、タバコはある種の「孤高」の象徴でもあります。
 彼らは歪んではいますが、それでも深いところで繋がり合えたような気がします。その日はずっと退廃的ではありますが、彼らの素のままが出始めています。最後には「セフレ」ではなく「セックスする恋人」と自分たちの関係を規定します。彼らは「理解者」を超えて「恋人」になったわけです。学校に戻るとカミュ『異邦人』の一節が引用されます。これは単純に僕の趣味ですが、それでもこの文章は永遠を感じさせてくれるいい文章です。これは昨日までの日々をマイルドに表現したものと言ってもよいでしょう。
 大麻を吸うのは、最後に「僕」を救いに行くためでした。「僕」はバッドトリップして「彼女」をついに殺しかけ、最高の自傷行為を達成します。そして「僕」は完全にトんでしまいます。本当は「彼女」は失神しただけ、「僕」はキマっちゃっただけ……なのですが。「僕」は夢の中で「彼女」に存在を肯定されます。それがひらがなで書かれた「ぼく」「わたし」「きみ」です。漢字で出来た外面をすべて取っ払ったひらがなの自分たちです。
 そうして(おそらくトリップ中に倒して)ウイスキーがかかり、あたかも生き返ったような気分になります。これは Finnegans Wake の歌の伏線でした。
「僕」と「彼女」は精神世界では全く繋がってないはずなのに、あたかも同じ夢を見たかのような感じになります。おそらくキチンと話せば違う夢を見ていたことに気づくのでしょう。でも、そんなことはしません。おそらくそうであろう、というだけで彼らは十分に安心できたからです。繋がっているような心持ちになったからです。
 こうして、「彼女」は「孤高」の象徴であるタバコをやめ、「僕」は『あなたを一生しゃぶるってのは?』をちゃんと『プロポーズ』と好意的に捉えることができています。
 Nくん、君は僕のことが嫌いだろうけど、今まで楽しかったよ。どうか自分の生を肯定できるよう、僕も祈っています。
 Nさん、僕はあなたが嫌いです。幸せに生きてください。
 そして、Sくん、ありがとう。君には今まで多くの迷惑をかけましたが、君にはいつも支えてもらっています。もしよければ、これからもよろしくお願いします。
 最後に。僕はようやく自分の人生を受け入れられるかもしれません。この駄文を、「人間賛歌」として捧げようと思います。

 ありがとう。*2

*1:当初「離しても」になっていました。指摘してくださったHelveticaさん、ありがとうございます。

*2:以上は(冒頭の【注意】を除き)文芸部の文化祭部誌に提出した文章です。質の悪い処女作だし公開する意味もないかと思ったのですが、共感する人間もいるかと思って公開することに踏み切りました。